Heart Earth

 転載フリー♪リンクフリー♪


スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


『虚業教団』INDEX

関谷皓元『虚業教団』
現代書林 1993

〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか



《はしがき》

コウフクノカガク

この不思議な名前に、人は何を思い浮かべるだろうか。

講談社へのファックス攻撃で、教団の名を一躍世に知らしめたフライデー事件。

ハンドマイクを握り、絶叫する小川知子や景山民夫の勇姿。

大手広告代理店・電通が制作し、繰り返し茶の間に流れたCM。

「時代は今、幸福の科学」をおぼえている方も多いと思う。

それとも1991年7月15日 東京ドームで催された〔御生誕記念祭〕だろうか。集まった五万人のド肝を抜いた、主宰・大川隆法の「星の王子さま」や「冒険ダン吉」を思わせる異様ないでたちや、おかしな抑揚をつけた演説だろうか。

 しかし私たちは、誰一人そういうものを望んで〈幸福の科学〉を設立したわけではなかった。たぶん、大川隆法その人にしても。


コウフクノカガク

元会員の胸には
さまざまな思いが去来するはずだ
去ることになった理由は
何であっても
この名前に一度は夢をみた
それは確かなのだから



いま 私の胸に
ひとつの苦い問いがある

宗教に団体は必要なのか‥

神と共に生きるのには
組織が必要なのか

一人では
神の望む生活は不可能なのか

教団に入らなければ
幸福は科学できないのか

断じて 否である


むしろ団体が
組織が 人を神から遠ざける

そんな場面を
私は〈幸福の科学〉という
神理探究の集団に
幾度となく見てきた

どんな教団にも属さず
理屈を振りかざすこともなく
職場で あるいは家庭で
精一杯生き生きと暮らしている

この人たちこそ
神のみこころの実践者では
ないのか

そのことを知るために
私は一つの教団を
通過してきたのかもしれない

私にとって〈幸福の科学〉は
一つの通過点であった

だから卒業の時がやってきた


「そんなことを言うおまえは誰か」と 読者は問うだろうか

 私は1986年〈幸福の科学〉発足以前から学習会の基礎造りに人生を懸けてきた男である。順調な仕事を閉鎖し、自社ビルを処分し、家族との辛い別れを体験しながらも すべてを捨てて打ち込んできた者である。

そのあいだには教団の最重要ポストを幾つも歴任してきた。

組織として形が整う前は活動推進委員として基盤造りに励んだ。会が動き出すと秘書課長として大川隆法に密着、その私生活にも深くかかわった。大川隆法・恭子夫妻の仲人もしている。

初代総務局長としての華々しい武勲もいくつかある。幹部人事を担当し、資金計画を立て、出版ルートを開拓した。他教団との折衝も手がけた。あの紀尾井町ビルへの入居も、それを発案し、折衝し、勝ち取ったのは私である。

 本部講師となり、会の基本原理である「四正道」を解説して全国を巡回した。

あの頃にあった草創期の熱気。いま思い出しても、自然と熱いものがこみあげてくる。

文字通りゼロからの出発。情熱の奔流に身を任せ、しゃにむに舟を漕ぎつづけた。そして、小さな舟が堂々たる大型船になったとき、伸び盛りのこの会を私は〔卒業〕した。

1989年10月のことである

決別の日から、早くも四年が過ぎようとしている。

 その後、さらに会は大きく発展した。会員は急速に膨張し、その数は500万人とも700万人とも言われるほどになった。しかしその半数、いや九割以上はすでに脱会していると聞く。

いま脱会者の多くは宗教難民となって、心をさまよわせている。何かを求め、辿り着くべきところを懸命に探しつづけているに違いない。私には、その思いが痛いほどよくわかる。一度宗教に夢を託した人間の宿命である。

 四年の歳月は過去を冷静に振り返る余裕を私に与えてくれた。客観的な目で、ようやく会を見ることができるようになった。今こそ〈幸福の科学〉の設立から脱会に至るまでの魂の遍歴を率直に語ろうと思う。

 いま、しみじみ思うことは、宗教団体に身を置いて学習する以上の神理探究法、自己変容の道の存在を強く感じていることである。

 しかし、それを語ろうとする時、どうしても一度は、今までの過程・事実について是非を問い、中立公平な第三者の立場に戻らねばならない。

この書は、その意味で私自身の点検書でもある。

 最初にお断りしておきたいのは、私は〈幸福の科学〉のすべてを非難するつもりなど毛頭ない、ということである。

その教義内容は、たとえ世間の有識者が何と言おうと、良いことを言っているのだし、また「霊性時代の樹立」「偉大なる常識人」というスローガンも、時節柄を鑑みて思うに的を射ていると賛同している。

ただ問題なのは、その本来の素晴らしい教えが〔教団〕という形に形勢されていく途中のどこかで、天の御心にあるまじき形態に、内容が変化してしまうことである。

僅か数十人、数百人の天使の集いだったものが、飛躍するうちに「虚業教団」になっていく。言っていることと、やっていることにどうしてもズレが出てくる。

宗教教団とは魔物であり、多くの場合には虚業でもある。その意味では大川隆法や善川三朗も私達同様に、大きな魔物に振り回された被害者なのだろう。

 人によっては〈幸福の科学〉と大川隆法の未知の部分の暴露本だろうから、思いきり悪く書いてくれるだろうとの〔期待〕もあった。しかし誹誘中傷は、私たち求道者の本意であるはずがない。

体験した事実を事実として、ありのままにストレートに書いた。

どのように受け止めるかは、読んでくださる方々の心境に委ねるしかない。そう思うと、何の力みもなく安心して書き上げることができた。

事実は小説よりも奇なり、という。読み方によっては本書は三面記事的な面白い読み物にもなるだろう。また別の受け止め方をすれば、理論理屈の本より、いっそう深い神理を本書からくみ取っていただけるものと信じる。


コウフクノカガク‥‥

それは私たちの
夢と挫折の物語である


       1993年9月
       関谷晧元



本書に登場する人物の名前は敬称を略し〈幸福の科学〉会員の名はすべて仮名とします。


●目次

はしがき

第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩

・大川青年との最初の出会い

・六畳ひと間の事務所からのスタート

・86年11月発足記念座談会

・仕事を捨てて〈幸福の科学〉へ飛び込む

・真摯だった発足記念講演会

・〈幸福の科学〉に集う純真な求道心


第2章「神」は結婚を命じ給うのか?

・〈幸福の科学〉にもあった神託結婚

・天上界が計画した?二つの結婚

・神を信じるのか、大川隆法を信じるのか

・〈幸福の科学〉は幸せを科学したか?

・奇妙な大川主宰との相互仲人

・神託結婚は大川隆法の「霊的現象」?


第3章「裸の王様」への道

・「真っ黒な雲が覆いかぶさってくる」

・大川夫人の登場と会の変質

・大川ファミリー経営の企業=〈幸福の科学〉

・「生命線」出版ルートの確保

・「ワンマン社長」としての大川の力量


第4章 愛なき教団だから「愛」を説くのか

・「高橋信次」は なぜ大川隆法に霊言したのか

・底の浅さを思い知らされたGLAとの接触

・GLAに対する大川主宰の異常な憎しみ

・大事件となったある「神託結婚」の失敗

・愛なき断罪と追放の実態

・悲しくそれぞれの道へ別れて

・建前だけの「与える愛」


第5章 さらば〈幸福の科学〉よ

・紀尾井町ビルへの入居契約が最後の奉公

・「光の天使」から「光の戦士」への変質

・必然的だったフライデー事件への道

・これがフライデー事件の真相だ

・〈幸福の科学〉との決別

おわりに
 
 
 
スポンサーサイト


『虚業教団』1

虚業教団1


第1章 ささやかな、けれども爽やかな第一歩

《大川青年との最初の出会い》

 1989年(平成元年)の夏、私はロンドンに滞在していた。そこから東京の幸福の科学本部事務局宛に、一通の封書を出した。封書には〈幸福の科学〉への別れの挨拶ともいえる私の辞表が入っていた。

この別れに淋しさがなかったと言えば嘘になる。

自分は〈幸福の科学〉を創りあげた一人である、という自負があった。人生を懸け、ともに歩んできた三年半。時間としては短いかもしれない。

しかし命懸けでのめり込んできた日々は、私には長く重いものだ。

 それまで私は自動車販売会社を経営していた。同業者からも羨ましがられたほど順調だった会社を人に譲り、自社ビルは売却した。妻子とも気まずく別れることになった。主宰・大川隆法に強制されるかたちで、〔神託結婚〕もした。それでもまだ、人生を懸けたと言うにしては、三年半は短過ぎるだろうか。

そのような会との別れは私の胸を締めつけた。

しかし一方では晴々とした気分だった。

 ロンドンの空は連日爽やかに晴れ渡った。お世話になったイギリス在住のTさんによると、ロンドンでこんなに快晴が続く年は非常に珍しいという。抜けるようなその青空に似た清々しさを、私は一人噛みしめていた。

(これからは一人で充分だ 一人で修行を重ねていこう)

 軽やかな陽射しを浴びながら、私はロンドンの街を公園を歩きまわった。その心をさまざまな思いが心をよぎる。

(幸福の科学は ほんとうに幸福を科学したのだろうか 会員は幸せになれただろうか)

(職場や家庭で彼らは真に素晴らしき人になり得ているのだろうか)

(確かに愛の理論はあった だが愛の実践はともなっていたか……)

(会員を集めることに走り 最初の志を忘れてきたのではあるまいか)

東京にいたときも、繰り返し浮かんできた問いである。

1ヶ月の休暇を無理やりもらってイギリスへ渡ってきたのは、三年半の激務でボロボロになった体の治療が目的だった。それは、遠く離れて会を見つめ直すいい口実になった。

遠くに立ち、胸にわだかまるいくつもの間いに答えを出したかったのである。

一日置きに治療を受けに通った。そのあい間にハイドパークの公園へ出かけるのが、いつしか私の楽しみになっていた。陽射しに暖められた柔らかな芝生に体を横たえ、胸一杯に新鮮な空気を吸う。ちょうど日本の初夏のようで、あちこちに陽炎が踊っていた。

会で重責を背負っているときは、何かに憑かれたように、いつも忙しく動きまわっていた。自然とゆっくり接することもなかった。会の方針や自分のかかわり方についても、落ちついて考えるヒマもなかった。

しかし、こうして遠くから眺めてみると、大川隆法という人物や〈幸福の科学〉が次第に見えてきた。

絶対と信じ切っていたものが、今は陽炎のように揺らいでいた。

(私の辞表に大川先生は何を思うだろうか)

そんな思いも幾度となくわいてきた。


 私と大川隆法の最初の出会い。それは三年前にさかのぼる。

正確な日付は忘れたが、86年の確か4月下旬だった。

私はその日、新宿七丁目の割烹料理店「作古」の二階で、一人の青年と向き合っていた。

 青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。

 当時は総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。

その一方では、善川三朗編の『日蓮聖人の霊言』『空海の霊言』に登場する〔霊能力者〕でもある。しかしその名前は、まだ世間にほとんど知られていなかった。

エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。

 私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。

 じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。

 事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えてきた。

(宗教とは、こんなにすごいものだったのか)

素晴らしい精神世界の一端に触れた気がして心臓が高鳴った。

大川隆法に引き合わせてくれたのも、このヨガの先生、中原幸枝だった。

「大川さんは大変な霊能力を持つ、偉大な先生なんですよ」

彼女は常々そう言っていた。

 あの頃、中原は都内に20ヵ所近いヨガ教室を持っていた。何冊かの自著も出版されていた。この世的な成功にも、異性にも一切 目をくれず、一途にヨガの修行に打ち込んでいる彼女には何か突き抜けたような爽やかさがあった。ひと言でいい表すなら〔尼さん〕が一番ピッタリかもしれない。整った顔だちも手伝い、ヨガ教室のスタッフや生徒には男女を問わず中原信奉者が多かった。

 中原は大川隆法を前にして、いつになく興奮していた。

だが私の目には、この小太りの青年はごくありふれた若者の一人としか映らなかった。

これがほんとにあの大川隆法なのか……。霊言を読み、どんなにかすごい霊能力者が現れるかと期待し、恐れてもいた私は少々意外だった。

私の会社の番頭格で、やり手の営業部長だった某とどこか似ていた。年長者の私をさし措き、平然と上座に座るところも某を思わせた。しかしそれも、この年代としては、まあ普通のことだろう。

私も中原にならい、青年を「先生」と呼ぶことにした。

大川も中原も酒には口をつけなかった。私だけがときどき杯を口へ運んだ。

話の端々から、青年の頭のよさが感じられた。こういう人材を持った会社は、営業成績をグングン伸ばしていけるだろうな、と私は思ったのを覚えている。長年営業畑を歩いてきた私は、有能な営業マンとしてバリバリ仕事している彼の姿を、すぐイメージすることができた。

 仏陀の生まれ変わりである主宰先生を営業マンにたとえるとは何事かと〈幸福の科学〉会員には叱られそうだ。しかし悲しいかな、これが長年の仕事によって培われた私のカンである。

 幸か不幸か、このカンは外れていなかったようだ。精力的な会員獲得戦略と、その結果として爆発的に増えた会員数を見れば、あのカンはまさしく的中したことになる。

 その年の男性にしては高い声で、大川青年は理路整然と澱みなくしゃべった。「先生の目は冷たい」というのが、私がいた頃の教団職員の一致した見方だったように記憶するが、そんな冷たさも感じなかった。笑うと、いかにも田舎の青年らしい はにかみが浮かんだ。

 私に失望があったとしたら、その日に〔ある種の眼差し〕が欠けていたことである。偉大な芸術家や霊能力暑が持つ、奥行きのある神秘的な眼差し。残念ながら彼の目には、その眼差しがなかった。中原は「大変な霊能力」と言ったが、大川の前に座っていても自分の一切を見抜かれてしまうような恐れは感じなかった。

要するに、頭のいい平凡な青年というのが私の第一印象である。

(そんなはずがない。あれだけすごい霊言をするのだから、私などには到底うかがい知れない何かがあるに違いない。きっと特大の超能力者なのだ)

そんなふうに考えてみた。(そんなはずがない。きっと……)という思いを、私はこれ以降、三年半の間に何十回、何百回と抱くことになった。だが、あのときはそんなことなど思いもしなかった。

 やがて神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。

「大川先生には500人もの高級霊が降りてくるんですよ」と中原は言った。

「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非つくっていきましょうよ!」

座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。

私が支払いを済ませ店を出ると、4月下旬というのに夜気は思いのほか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体!

この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。

大川隆法 30歳
中原幸枝 年齢不詳
私が 51歳
三人ともまだ若かった

この夜から何かが動きだしたのである
 
 


『虚業教団』2

虚業教団2
六畳ひと間の事務所
86年11月発足記念座談会


《六畳ひと間の事務所からのスタート》

 大川の本を読み返してみると、86年6月に諸霊から「会社を辞めよ」と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。4月下旬の「作古」での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。

 中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。

「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」彼女の声は弾んでいた。

「大川先生の案で〈幸福の科学〉とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう?」

コウフクノカガクという言葉に少し戸惑ったが、即座にOKした。幸福の科学、なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。

「今度、入会申込書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は18番ですよ」

「エッ18番?もう、そんなに大勢 入ったのですか」

 正直に言うと、たった一日で10人も20人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えてみれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たちが大勢いたのである。ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち100人にも膨れあがった。

 今あらためて〈幸福の科学〉の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求める まっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。

 大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。ただ中原は「大川先生、大川先生」と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。

「中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう」

初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。

ここに陥穽があった。

 中原や私が望んだものは信仰に凝り固まった宗教団体ではなかった。

私たちは学習の場をつくろうとしたのである。大川隆法という宗教的天才を先生として、歴史に現れた神の理法を学び、実践していく学校。そう学校だ。

霊言や「作古」での話し合いから、私はそんなものをイメージしていた。この点では、少なくともその言葉を信じるかぎり、大川の考えもそんなにかけ離れたものではなかっただろう。

「幸福の科学は、いわゆる宗教にはしたくない」

ハッキリと彼は断言していた。しかし私たちは、中原の大川賛美を無条件に受け入れることで、個人崇拝への道を敷いてしまったのではなかったか。自分の写真を宗教法人〈幸福の科学〉の本尊とし、自らを仏陀の生まれ変わり、宇宙の最高霊エル・カンターレであると称するような、ある種の〔狂気〕に道を開いたのではないか。

 仏陀は涅槃に入る前に、弟子たちを集め「これからは人を師とするのでなく、法を師とせよ」と説かれた。慚愧の念なしに、私はこの教えを思い出せない。悪評を買った91年の〔御生誕祭〕に「星の王子さま」さながらの姿で演壇に登場したエル・カンターレ。

冷やかし半分のテレビでそれを見せられ、複雑な思いを味わった人も、初期の会員には多かったに違いない。

だが当時、そんな日がやってくるなどと誰が想像しただろうか。

 その夏、中原は軽井沢にある父親の別荘へ大川を案内した。すでに大川は7月半ばでトーメンを退職していた。中原家の別荘で、大川は『正心法語』『祈願文』の二つを書きあげて戻ってきた。覚えやすい七五調の現代語で会の指針を説く『正心法語』は、今でも会の「お経」になっているはずである。

 大宇宙に光あり
 光は神の命なり
 命によりて人は生き
 命によりて歴史あり
 命は永遠に不変なり…

言葉は今でもスラスラ、ロをついて出る。学校の校歌みたいだと、意地の悪いことを言う人もいる。しかし私たちは、そこに霊性時代の幕開けの声を聞いたのである。

指針は示された!

誰もがワクワクしていた。特に若い会員は熱っぽく語り合い、イキイキと働いた。彼らの手で『正心法語』『祈願文』はワープロ打ちされ、コピーされ、紐とじされて、表紙には金色のスタンプが押された。

「手作りのこの二冊が、将来はとても価値あるものになるのね」

誰もが中原のそんな熱意に動かされ、喜んで作業に励んだ。新しい価値を自分たちの手で創り出しているのだという感動をみんなが共有していた。そしていつの間にか、この会なしに神理の探究は不可能である、と思い込んでいったのである。

 最初の事務所は、杉並区西荻窪にある中原の自宅を改造した六畳一間だった。中原は改築のために、なけなしの貯金をはたいた。デスク代わりの小さなちゃぶ台が一つに、茶碗が五、六個。部屋の一部がカーテンで仕切られ、そこで大川が相談者の話を聞くことになっていた。

 そこに息苦しいほどこもっていた若者たちの熱気を私は懐かしく思い出す。


《86年11月発足記念座談会》

 いよいよ会として第一回の会合を開くときがきた。「幸福の科学発足記念座談会」が行われたのは、この年の11月23日である。場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。後の〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。

 私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。

気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。

 会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。

 左端に屏風が立ててあり大川と中原はその陰へ入った。ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇へカメラを構えた。

そこには、70~80人が集まっていた。

 まず司会役の中原が登場し開会の挨拶をした。

彼女はかなり緊張しアガっているように見えた。最初は言葉も しどろもどろだった。

しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えていないが、ひとつだけ強く印象に残っている言葉がある。

「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」

中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。

 いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。

大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。

「炎を見てモーゼは火事だと思ったのですね。でも119番できないんですね。電話がないから……アッハ、ハ」

人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぼえる。

 その日はGLA教団の教祖である故高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって聞いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま)と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。

テープで聞く高橋の早口を大川はマネしているように聞こえた。

(おかしいな)と私は思った。

(霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど……)

心の中でこう つぶやいた。

(やっぱり大川先生ご自身のお考えで話されているのかな)

しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。

 会場には、やがて〈幸福の科学〉の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。

創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ〈幸福の科学〉でも89年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。

その大沢が「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。

それまで〔大川隆法〕は、大川タカノリであった。本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。

 ともかく発足記念座談会は成功に終わった。帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。大川も中原も私も一様にホッとしていた。これから楽しいことがはじまりそうだ……私は嬉しくてしかたなかった。
 
 


『虚業教団』3

関谷晧元『虚業教団』3
仕事を捨てて幸福の科学へ
真摯だった発足記念講演会


《仕事を捨てて幸福の科学へ飛び込む》

 私はまだ〈幸福の科学〉に夢中というほどではなかった。

当時 私は、世田谷の環八通りに自動車販売会社を持っていた。1967年の3月3日に、ほとんど無一文でスタートしてから19年。一度の赤字もなく、順風満帆で伸びてきた会社である。二年前にはそれまでの借地を買い、四階建ての自社ビルも新築した。

「どうしたら関谷さんみたいになれるかね」

仲間からはいつも羨ましがられていた。

ビルもさることながら、小さいながら楽しい職場であることが私の誇りだった。お客さんも、友人の家のようによく遊びにきてくれた。

〔次の3月3日は、20周年記念だ。関係者を呼んでドーンと花火を打ち上げてやろう〕

そう思ったとき私の心はすでに ひとつの決意を秘めていた。

 3月3日、20周年記念パーティーの当日。青山ダイヤモンドホールで開いた祝賀会には200名もの人が集まった。

その中に大川隆法と中原幸枝の姿もあった。自動車業界の社長さんたちは、まだ無名の大川隆法には当然 目も留めなかった。パワフルな実業家たちの熱気あふれる中で、二人はやはり異色だった。二人がたたずむそこにだけ、静かな、清涼な空気が漂っているように見えたものだ。

パーティーは愉快に楽しく進行した。琴とバイオリンの二重奏あり、木遣り歌あり。木遣り職人のショーには、取引銀行の支店長が飛び入もする盛り上がりだった。

最後に、感謝の意をあらわすために私が壇上に立った。

「みなさんのおかげで、我が社もここまで成長することができました。ところで、私には この人生でもうひとつやってみたいことがあります。残りの人生は、それに打ち込んでみようと思います」

誰も予期しない爆弾発言だった。

友人や知人、業界仲間は一斉に驚きの声をあげた。順調な仕事を放り出し、五十男の関谷が、いったい何を始めるのか。誰もが不思議がった。この人生でもうひとつやってみたいこと。それを明言したら、驚きはさらに大きくなっただろう。

 振り返ってみれば、経済的安定のみを求めて生きてきた私の半生である。その結果、ひと通り必要な財産は造りあげた。豪邸とはいかないが、そこそこの住宅を建て、四階建ての粋な自社ビルも持てた。人間関係にも恵まれたほうだろう。

(これで充分さ。このうえ何がほしいのだ)

何度も自分に問いかけた。

 当時の私は互いの我がままから妻や子供と別居し、別々に生活していた。

(気楽な独り暮らしじゃないか。金もあるし、ある程度の社会的地位もある。男なら、一度は夢見る生活だぞ。何が悲しくて、居心地のいいポジションを投げ捨てるのだ)

私の「常識」はそうささやいていた。

しかし、私にはこの人生でもっと大切な仕事が待っていると感じられた。その仕事を成し遂げるために、今までの幸せが与えられていたのではないか。妻や子供との別居さえ、そういう天の はからいではないのか。

 20周年記念パーティーでの爆弾発言の裏には、こんな自問自答があった。

私は決して空想的な男ではない。地に足のついた生活をしてきたし、現実的な人間関係を何より大切にして生きてきた。だが心の底には、この現実を超える素晴らしき価値が、必ずどこかにあるはずだという漠然とした思いがあった。

 顔を出してみた宗教団体も、今までに二つほどあった。けれどご利益専門の宗教は弱い人間の集まりとしか思えない。私が求めるものはそこにはなかった。

漠然とした思いが〈幸福の科学〉の創設に加わることで急にハッキリした形をとり、私自身にも信じられないほど膨らんできたのである。

 この年、87年は〈幸福の科学〉の胎動期だった。

活動推進委員が選ばれ、委員を中心に会の基礎造りがおこなわれた。委員に任命されたのは、前川節、細田勝義、高橋守人(後に退会)、太田邦彦(後に退会)、そして私の五人である。そこに、秘書室長の中原幸枝を加えた六人が、大川主宰を囲んで会の方針を話し合った。〈幸福の科学〉は次第に形を成していった。

お気づきのように、中原と私を含めた初期の幹部六人のうち、すでに四人が退めている。

四人という数が多いか少ないか、私にはわからない。しかしホンモノの神理なら、どうして苦楽をともにしながら会をつくりあげた仲間の半数以上が去っていかなければならないのか。これでは大川が豪語するように、すべての日本人を会員にするなど到底不可能だろう。不可能というより、誇大妄想と呼ぶほかない。

 この時期、私はメルセデス・ベンツの新車を購入した。もちろん、会の活動に役立てるためである。講演会のたびに主宰の送り迎えをし、徳島在住の顧問・善川三朗の上京に際しては、羽田からホテル、ホテルから会場へと文字通り大車輪の活躍だった。

そのたびに私が運転した。人間とは面白いものだと、つくづく思う。何が人生を変えてしまうかわからない。このベンツが、私を全面的に〈幸福の科学〉へと走らせるきっかけのひとつになったのである。

 何を求めて私はあんなに走ったのだろう。

かつて自社ビルの工事が始まり、クレーン車が最初の鉄柱を目の前で設置したときも、その夜の棟上げの宴席で仲間におだてられたときも、特別嬉しいとは感じなかった。ニコニコ顔で酒をついでまわりながら、心のどこかで強く思っていた。

(これが何だというのだ。おれの一生は、こんなことのためだけにあるんじゃないぞ)

2000人いる東京の同業者のうち、自社ビルまで建設したのはたった三人と言われていたのに。


《真摯だった発足記念講演会》

 かねての予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立20周年パーティーが終わって三日後、3月6日のことだった。その二日後には〔幸福の科学発足記念講演会〕が迫っていた。

ここで大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。

すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊験集は、大川の著作としてではなく、善川三朗編として上梓されている。善川と大川の兄にあたる富山誠の質問に、大川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。

世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り沙汰している。だが私にはどちらでもよかった。この点では中原幸枝や、ほかの初期の会員より醒めていたのかもしれない。

霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。

霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光をあてられ、万教帰一、ただ一つの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界!それで充分だった。大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったのである。

 ところで〈幸福の科学〉に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗というのは、大川の父、中川忠義のペンネームである。富山誠は兄の中川力にあたる。

理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。親子ではあまりにも世俗的だ。四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。そんな神秘的な演出がねらいだったらしい。このことは、大川のごく身近にいた私たちでさえ、しばらくは知らなかったぐらいである。

 87年9月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。差出人は「幸福の科学」拝読者となっていた。

〔大川隆法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに「不思議だなぁ」と思い「人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか」と思っていました。また「大川隆法」という人物と「善川三朗」そして「富山誠」のこの三人がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それは本当だろうか〕

疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとともにこんなふうに書いている。

〔私も驚きました。本当に親子だったのです。なぜ心・魂等を説く人間が自分の素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでしょうか〕

さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。

会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。大川も善川も、霊言集の出版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだろう。それで二人の関係を劇的に神秘的に創作してみた。たぶん、そんなところだろう。

 話をもとへ戻そう。中原幸枝に依頼され、講演会の二日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。

純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朗に対する私の印象である。このおっとりした先生が、あのようにすごい神理の本を書かれるのか。それが私には ひどく嬉しかった。

さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。

(神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる)

そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。

私は大喜びで料理屋へ接待した。
(明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。その次の日は、いよいよ記念すべき講演会だ。いったいどんな講演会になるのだろう)
嬉しさで胸がワクワクしていた。

 翌日の夜は、東京では珍しい大雪になった。しかし講演会当日の朝はカラリと晴れ、降り積もった雪に朝の陽が眩しく反射していた。

雪に気をつけながらベンツを走らせ、まず中原の自宅へ。そこで中原を拾い、大川、善川両先生を迎えに行くはずだった。しかし、待っているはずの中原の姿がない。玄関のベルを押したが返答もない。待ち合わせの時間は刻々と近づいてくる。しかたなく、先に両先生を迎えに行った。

 後になってわかったことだが、緊張のあまり前夜寝つかれなかった中原は‥ ‥私が押した

会場の牛込公会堂には400人ほどの聴講者が入っていた。400人!大成功ではないか。大雪を押して集まった人々の熱意に私たちは感動した。

〈幸福の科学〉の初期の講演会では、今と違い、講師はいつも大川隆法、善川三朗の二本立てだった。しかしいつ頃からか、二人が同じ演壇に立つことはなくなった。父親は父親、息子は息子で別々に講演会を催している。その経緯に関して、私の知ることは後で書くことにしたい。

今、当日のプログラムをめくってみると

開会の挨拶……太田邦彦

講演「幸福の科学発足によせて」……善川三朗先生

講演「幸福の原理」……大川隆法先生

閉会の挨拶……前川節

司会……中原幸枝

 会は滞りなく進んだ。大川も中原も、今回は座談会のときより落ちついていた。

いい講演会だった。広い会場が水を打ったように静まり返り、誰もが真剣に耳を傾けていた。子どもたちが騒ぎ回ることもなかったし、感極まって泣きだすなどということもなかった。

「今日は先生から、こんな色の光が発していた。私にはちゃんと見えたが、あなたにはあれが見えましたか」

そんなことを自慢げに話しながら帰っていく人も、当時はまだいなかった。

みんなが真摯に道を求めている。そういう引き締まった空気がピーンと支配していたのが初期の講演会である。

この夜の食事は、楽しい思い出として残っている。みんなが会の成功を喜び、次回はもっと盛りあげようと誓い合った。はじめて会から費用をいただいての会食でもあった。会員からの貴重な会費だと思うと、少し心苦しかった。

しかし、その心苦しさにも私たちは次第に慣れていった。

 翌日は、また善川をホテルへ迎えにいき、首都高を羽田まで送った。一昨日の雪がまだ あちこちに残っていた。講演会の成功に善川はとても満足しているように見えた。

こうして私は三年半のあいだに、羽田と西荻窪を30回ほど往復しただろうか。それは決してイヤな仕事ではなかった。

〈幸福の科学〉の発足時に、こうして誰にも見えないところでお手伝いできたことを、私は今でも誇りに思っている。
 
 


『虚業教団』4

虚業教団4


《幸福の科学に集う純真な求道心》

 1987年(昭和62年)は〈幸福の科学〉が本格的活動を開始した年である。

この年は、牛込公会堂での第一回講演会をかわ切りに、講演会が確か五回、合宿による研修会が二回、はかに上級、中級、初級セミナーが計画、実行された。四月からは会の月刊誌も発行されている。

 中原幸枝はまさに八面六臂の大活躍だった。ヨガスタッフの山田篤、上村恵子(後に退会)、七海真由美、安岡一夫(1993年退会)などが、中原の手足となって献身的に働いた。

会場の手配、会員への連絡、パンフレットや機関紙の編集・出版の作業に、喜々として取り組む彼らの姿は私にも気持ちのいいものであった。

 しばらくすると、阿南浩行(後に退会)、高橋秀和、福本孝司(後に退会)、河本裕子といった初期の優等生たちが読者の中から現れた。

 なかでも、阿南は28歳という若さながら霊的に非常に覚醒していた。仏教やキリスト教など宗教全般に詳しく、大川の霊言集に関してはどんな角度からでも、理路整然と解説できた。理論では会員中随一だったろう。一部上場企業の社員だったが、上司が止めるのを振り切って退職し、会の活動をしてきた。純粋な求道心を持つ中原とはウマがあったようだ。

 大川は、この阿南を釈迦の十大弟子の一人、アーナンダ(阿難)の生まれ変わりであると宣言していた。釈迦が亡くなるまで25年間にわたって師につかえ、最も多く教えを聞いていたことから「多聞第一」と呼ばれたのがアーナンダである。仏典結集に際しては、亡くなった師の代わりに教えを語って聞かせたとされている。

 不思議なことに阿南も霊言集の編集に携わっていた。テープに吹き込まれた霊言を文字にし、整理する仕事であるが、これは阿南と中原だけがタッチすることのできる最重要の仕事だった。

 しかし、このアーナンダはある事件がきっかけで、間もなく〈幸福の科学〉を去った。

もし大川と阿南が、大川主宰の言う通り、真の仏陀とアーナンダだったとしたら、どうして袂を分かつなどということがあっただろうか。この事件は、中原と私の心に深い傷を残した。いや、当時の会員すべてに、言いようのない衝撃を与え、大川主宰に対する疑念を生じさせたのである。

 事件については、もう少し後に譲ろう。

阿南についてだけでなく、事あるごとに大川は〔生まれ変わり〕の話をした。私はといえば、中国の天台開祖・智ギの高弟の一人を、前世として大川から頂戴した。もっとも私には、そんなものはどうでもよかった。大切なのは現在である。

 しかし後に、大川夫妻のあいだに誕生してくる子が、天台智ギの生まれ変わりだと聞かされたときは、前世話のご都合主義にさすがに首をかしげた。

 阿南より少し遅れて、やはり本がきっかけで高橋秀和が参加してきた。実直で、とくに事務処理には大変たけていた。おかげで会の仕事はテキパキと進んだ。会議録の整理、レジュメ、マニュアル作りをさせたら天下一品。ただ、あまりにも狂信的で、融通が利かず、頭の固いところがあった。

 最も初期の仲間には、いなかったタイプの人物である。後日、阿南事件が起こると、阿南の電話をすべてメモし、主宰先生に逐一注進に及ぶという実直ぶりを示した。大川は、高橋を十大弟子の中でも筆頭格のマハーモソガラナー(大目蓮)と呼んでいた。

 新しく参加した阿南や高橋が厚遇される一方で、発足記念講演会で開会の挨拶をした太田邦彦などは冷遇されていた。前世の話でも彼一人が除け者にされた感じだった。

「あなたはまだまだ霊格が低い。この人たちは後から来たけど、あなたよりずっと魂が大きいんだ」

大勢の前で大川が太田をやり込めたことがある。

 しかし今にして思えば、太田という人は、大川を神格化しょうとする人たちと一線を画していたにすぎない。それが主宰先生には気にいらなかったのか。結局、太田は最も早い脱会者の一人になった。

 こうした話を聞いて、ワンマン社長が牛耳る中小企業を連想する人がいても不思議はない。つまり、どこの集団にもある人間関係のさまざまなトラブルや軋轢が、ここにもあったということである。その意味では、現実世界を超越した集団でもなく、光の天使の集まりでもなかった。

それどころか現在の宗教団体は、ほかのどんな集団よりも、露骨に権力や金の問題が現れてくる、極めて世俗的な場所であると言ったほうが正しいだろう。

 だが、ここでお話ししている最も初期の段階では、そうした問題もまだハッキリとは現れていなかった。専属の職員など一人もいなかったし、一般会員から区別されるような幹部も存在しない。言い換えれば、全員がボランティアだったのだ。

昼間は会で働き、夜はアルバイトする。そんな会員たちの情熱が会を支えていた。

誰もが新しい時代を予感しつつ、神理を学ぶことを第一の目的と考えていた。

 87年の5月、第一回の研修会が催された。琵琶湖湖畔のホテルでの三日間にわたる研修会には、110名の参加者があった。

研修会は後に講師を養成する場所となっていった。三日間は、講義とディスカッション、意見発表の連続だった。それは素晴らしく、そして楽しかった。大川主宰や善川顧問に親しく接し、神理を学べることが嬉しくてならなかった。

もっと学ぼう、もっと学びとろう。参加者のそんな思いが最高潮に達したところへ、あの最終日がやってきた。

 第一回研修会における大川隆法の最終講義は〈幸福の科学〉では、今日でも語りぐさになっている。『正心法語』の解説だったが、それは力強さと格調に満ちていて、私たちの心をワシづかみにした。

高級神霊が語るとはまさにこれなのか。朗々と響く大川の声に圧倒されながら、私はそう思った。

 その時まで私たちはまだ比較的冷静で、大川を見る目もどちらかと言えば客観的だった。

神様あつかいしたり、妄信していたわけではない。しかし あの講義は、私たちの心に何かの火を灯したのである。

私たちは魂を深く揺さぶられ、感動を通り越してほとんど呆然自失していた。

そのときの大川の言葉を引いてみても、私の筆力では、その感動の万分の一も伝えられないのが もどかしい。

「我々は一致団結し、霊性時代の新しい価値をつくり出さなければならない。ここに集まっているのは、そのために目覚めたエリートなのだ。いまだに物質欲や金銭欲に縛られているほかの人間とは違う。素晴らしい時代をつくっていく、光の天使である」

私たちは天の進軍ラッパを聞いたのである。

(我々の手で新しい霊性の時代を樹立する!ここにいる一人ひとりが、みんな光の天使になって世の中を変えていくのだ!)

みんながそう考えた。勇気が体を満たし、希望に心が燃えあがるのを感じた。
 
 


『虚業教団』5

虚業教団5
幸福の科学にも神託結婚
天上界が計画した?二つの結婚



第2章「神」は結婚を命じ給うのか?

《幸福の科学にもあった神託結婚》


 女優の桜田淳子や、スポーツタレントの山崎浩子らが参加し、マスコミの注目を浴びた統一教会(世界統一神霊教会)の合同結婚式。何千人もの男女が集まり、教祖の祝福を受けるあの式に、世間があんなに激しい反発を示したのはなぜだろう。愛情と尊敬で結ばれるべき生涯の伴侶が、教祖の指示ひとつで決められる。そこに不自然なもの、人間の尊厳を否定するものがあるのを多くの人が感じたからに違いない。

 統一教会のそれと似たものが、じつは〈幸福の科学〉にもあったと言えば驚く人が多いだろう。

新しい会員は「まさか」と思うかもしれない。しかし何組かの男女が、大川隆法の「これは高級霊からの指示である」という言葉によって、結婚させられたのは紛れもない事実である。

古参幹部を除くと会員にもほとんど知られていない〔神託結婚〕の実態をここでお話ししてみたいと思う。

 忘れもしない1987年12月のことである〈幸福の科学〉の2年目にあたるその年は、非常に有意義な一年だった。後援会とセミナーが各地で開かれ、会員も増えた。

前年の10月に中原の自宅を改築して開いた六畳の事務所がもう手狭になり、5月には荻窪松庵三丁目にある新築ビルの地下へ移転している。広さはそれまでの六倍。ボランティアの会員も、活躍の場所をやっと得て大喜びで働いていた。

ついでながら、移転に要した敷金500万円は中原に頼まれて私が用立てた。誤解のないよう言っておくと、この500万円は後に全額返済してもらっている。こういう面では、大川はきっちりケジメをつける人だった。

 その年も終わりに近づいた12月26日、この日はちょうど、中原幸枝のヨガ教室主催による四週間瞑想セミナーの最終日にあたっていた。最後を飾るべく中原は、特別講師に大川隆法を招いた。このことからも初期の〈幸福の科学〉が中原のヨガ教室と半ば一体だったことがわかる。

「セミナーの終わりに、直接大川先生のご指導がいただけるみなさまは、ほんとうに幸せです。みなさまは、人生のクリスマス・プレゼントを今夜いただけるのです」

中原から開会の挨拶を促された私は参加者を前にそんな話をした。人生のプレゼント。いま思い出すと悔恨たるものがある。

この夜は大川の誘導で、自分が金の仏像になり体から金色の光を放つところをイメージしたり、体から意識を抜いて拡大させる瞑想などをおこなったと記憶している。当時の〈幸福の科学〉は中原の影響もあってか瞑想が大きなウエートを占めていた。

大川の講演中、彼女と私はいつものように特別席に並んで腰かけていた。その日にかぎって、中原が妙に私を意識しているらしいのが気になった。今までは、一度もそんなことはなかった。互いに異性を意識せず、兄と妹のように仲良くやってきた二人である。

(きょうの中原は少しヘンだな。何かあったのだろうか)

何があったかは、セミナー終了後に明らかになった

「今日は私からちょっとお話がありますから、一緒に食事しましょう。吉祥寺に場所を 予約してあります」

セミナーが終わって、声をかけてきたのは大川だった。

「双葉」という古い料亭へ案内された。大川と私、そして中原の三人である。部屋に通された私たちは、料理をいただきながら、今日のセミナーのできばえや、瞑想の反応状態について話し合った。

そこまでは、いつもと何ら変わったものはなかった。途中で急に大川が話題を変えた。

「関谷さん、じつは私、結婚することにしたんです」

意外な話に、私はびっくりした。崩していた膝を思わず直してお祝いを言った。「イヤ、それはそれは。ほんとうに おめでとうございます。会の流れからしても、今が一番いいときだと思います。これで、会もしっかり根をおろします。ほんとうに、よかった。でも、お相手は誰なんでしょう。私には見当もつきませんが」

「アハハ。誰だと思いますか」

私は一瞬、中原ではないのかと思った。彼女の名誉のために言っておかなくてはならないが、二人が特別な関係だったということではない。

大川のまわりには、とにかく女っ気が少なく、結婚に対する憧れを しばしば ほのめかした主宰先生だが、それらしき女性は見あたらない。縁談があるとも聞いていない。その場にいた中原を、とっさに思っただけのことである。

「関谷さんは、たぶん知りませんよ。あの方はボランティアですから」

返答に困っている私に、中原が助け船を出してくれた。

「じつは木村恭子さんという会員です。これは神示が下っての神託結婚なのです」

名前を聞いても、私には顔も浮かばなかった。それより私には〔神託結婚〕という耳慣れない言葉が異様に響いた。大川先生ほどの人になると、やはり結婚にも高級霊からの指導があるのか……。

「もうすぐ東大を卒業される、素晴らしく優秀なお嫁さんですよ」

それが現在、主宰夫人となっている大川恭子のことを聞いた最初である。

彼女の登場で〈幸福の科学〉は、またひとつ大きな転機を迎えることになる。しかしそれが会を変貌させ、空虚なものにしていくことになろうとは、中原や私はもとより、大川自身も知らなかったことである。

だが「双葉」での話はこれだけでは終わらなかった。


《天上界が計画した? 二つの結婚》

「それでこの際、関谷さんにも結婚していただくことになりました」

まるで事務処理を指示するような調子で、大川隆法が言った。
思わず自分の耳を疑った。大川が結婚するのはいい。相手が誰でも、先生と呼ぶ人の結婚を私は心から祝福するだろう。

しかし、なぜ私が……。妻と五年間も別居しているとはいえ、まだ夫婦である。その私に結婚せよという大川の言葉は冗談としか思えなかった。

不思議なことに、大川とあれほど身近に接していながら、大川との個人的な会話はあまり私の記憶に残っていない。人の心に感動を呼び起こすもの、鮮烈な印象を残すものが少なかったように思う。しかし、このときの話は さすがに今でもハッキリと覚えている。記憶に従って、できるだけ忠実に再現してみよう。

「先生、何をおっしゃいます。第一、私には相手がいませんし、そんな段階ではありません」

「いや、それがちゃんと決ったんです。天上界の(高橋)信次先生からの通信です。これはもう明日入籍していただきます。お正月には新婚旅行に行っていただくことになっています」

「ハハハ……。なんだ、冗談ですか。先生も悪趣味ですね。でも先生が結婚されるのは ほんとうでしょうね」

「とんでもない。これは神託結婚です。天上界の計画通りにしていただきます」
言うべき言葉が見つからなかった。

「関谷さんのお相手は、もう決まっているんです」

「どんなふうに決定しているんですか。どこにそんな人がいるんですか」

「はい、ここにいますよ。ほら!」

大川のこの声を待っていたように、中原幸枝がバッと畳に手をついた。

「関谷さん、よろしくお願いします」

「エッ!アレ!……そ、そりゃあない……」

このように書けば、一場の喜劇でしかない。ドタバタ喜劇のおかしさは、人間の尊厳というものを踏みにじるところに生まれる。だからピエロたちの演技はどこか悲しい。

「よろしくお願いします」と手をついた中原の心中はどうだったろう。世俗的な幸せを捨て、ひたすら道を求めてきた中原の生き方は、このとき完膚なきまでに踏みにじられたのではなかったか。彼女はどんな気持ちで、私に手をついたのだろう。その気持ちを、私はいまだに聞きえずにいる。
 しかし大川に心酔していた中原は、私との結婚について、一分の疑念も持っていないようだった。
大川は私の説得にかかった。思いどおり事が運ばないときは、相手を押さえつけるような、威圧的な口調になるのが彼の流儀だった。
「関谷さんは二度目の結婚になります。あまり自分勝手は許されません。それに中原さんは、過去に何度も転生しながら、一度も結婚したことがない。今回始めて神示により、関谷さんと結婚することになりました」

「………………」

「私たちは何度生まれ変わっても、今ほど重大な時代に生まれることはできません。神のご意志に従ってください。私たちはみんな自分の使命を果たさなければなりません」

神の意志、使命。それを言われると、私には抗弁のしようがなかった。

「この幸福の科学は、今、そのための基礎造りの段階です。私も神のご意志に従って、よく知らない人と結婚します。この際、関谷さんも己を捨てて、会の土台造りに身をあずけていただけませんか…… それとも中原さんではダメですか。中原さんは昨日一秒でOKを出したんですヨ」

私はそういう目で中原を見たことはなかったが、一般的な見方をすれば、彼女はたぶん とても品のある美人である。妹のような存在としか思ったことはないけれど、どうして中原でダメなことがあるだろう。

(だが)

と私は思った(精神世界の探究に身を捧げている尼さんのような彼女が、本気で私などを受け入れるはずがない)

そう思って中原を見ると、彼女はこちらを向いて正座し、両手を膝に置いたまま私の返事を待っている。その表情には何の不安もなく、私から「OK」の返事が当然くるものと確信しているらしい。このとき私の脳裏に走ったのは、セックスなき不自然なカップルだった。私を含めて男とセックスなどできる中原とは、到底思えなかった。としたら聖職者同士の夫婦生活である。この私にそんな生活が可能だろうか。まだ残している問題もあるし……

さまざまな思いがわいてきて、頭が混乱してしまった。

(ええい、ままよ。人生は所詮ドラマじゃないか)と私は心の中でつぶやいた。

(天上界の信次先生のご指示だというなら、それもよし。私もそろそろ、そんな禁欲生活に入っていい頃かもしれない。そのために今までの恵まれた生活があったんだろう)

もう一度中原に目をやった。即座の返事を求めるように真っ直ぐに私を見ている。

「よろしく、お願いします」

ひとりでに口から出ていた。中原と私は両手をついて頭を下げあった。

それを受けて大川がしゃべった言葉を、私は今もハッキリ思い出すことができる。

「よかった。何しろ神理を説くトップの私だけの結婚となると、会員からいろんなことを言われそうで困っていたんですよ。しかし中原さんと関谷さんが結婚するとなれば、意外性ということで話題になり、私のほうの話は半減されて助かります」

 いまなら中原と私の結婚を煙幕にするつもりなのかと言うこともできる。だがそのときは(おかしなことを言うな)と感じただけだった。それも心の片隅で…

 統一教会の合同結婚式の後、親族やキリスト教関係者に説得されて結婚を破棄した山崎浩子が記者会見で「マインド・コントロール」という言葉を使った。

宗教団体という特殊な世界にいると、正常な判断力が麻痺する。神との仲介者である教祖が信者の心をいとも簡単に支配してしまう。そんな状態を「マインド・コントロール」と彼女は呼んだのだろう。

しかし支配される心は、支配されることを望んでいるのである。自分のすべてを理解し、行くべき道を指し示してくれる存在を心の底で求めている。中原や私にも、その思いがなかったとは言えない。

「お互いの仲人をやりませんか。それで、どちらも貸し借りなしのオアイコということにしましょう」

私の都合などまるで無視して、嬉しそうに大川が言った。
 
 


『虚業教団』6

虚業教団6
天上界が計画した?(つづき)
神を信じるか大川隆法を信じるか


 しかし、私にはまだ妻がいる。離婚は話し合いがついていたが、高校生の娘が大学受験を終えるまでは、籍だけ残しておこうという話になっていた。いまではそれが、身勝手な父親である私が娘にしてやれるたった一つのことだった。

このことを話すと、大川は驚いた顔をした。
「エッ、まだ籍が抜けてなかったんですか。それは知らなかった」
いつも、私たちのすべてを見通しているようなことを言っている大川が、こんな重大なことを見落としていたとは。

「あと二カ月で娘の入試が終わります。それまで、このままではいけませんか」

「いや。私のことも、もう発表してしまわなければならないし、それは困るよ。何とかなるでしょう、関谷さん」

いまや、大川と私は師弟の関係にある。まして、その師は天上の世界から直接指導されているのだ。人間の浅知恵では計り知れない大計画が、こうして一歩ずつ実現されようとしているのかもしれない、と私は考えた。

私もまた「マインド・コントロール」によって正常な判断力を失っていたのである。

その場は「すぐにでも妻と話し合ってみます」ということでお開きになった。

 家に帰っても心が落ちつかなかった。独り暮らしのマンションで何度も繰り返した。

まず大川主宰がご自分の結婚の話題を半減させたいという、その心理はいったい何だろうと考えた。

(そういえば、若い女性とのデートすら、先生は一度も経験したことがないと聞いたことがある。そんなことからくる、先生特有のテレなのだろうか)

(それにしても、私と妻との現状を、まったく霊視できなかったのだろうか。この結婚は、中原と私の一生を左右する重大事である。すべてを見通したうえでのお話しではなかったのか)

(もしかしたら大川先生は、じつは異次元など何も見えない、頭のいいだけの人間なのだろうか。自分の都合だけを優先させ、他を思いやる愛のない人なのだろうか)

そうした考えに行き着くたびに、私は何度も首を振った。

(いや いや そんなことは絶対にない)

この夜、私の頭は混乱しハッキリした結論はついに見出せなかった。


《神を信じるのか、大川隆法を信じるのか》

 私は常々、自分は〈幸福の科学〉という小舟が、大型船となって大海へ乗り出すまでの臨時の乗組員に徹すべきだと考えていた。

大きな船になり、本格的に大海原を走りだしたら、もっと優秀な、若くて元気な人たちが帆を上げ、舵を握るだろう。そのときまでの縁の下の力持ち。私にはそれが相応しい。

次のクルーに胸を張って船をあずけられるよう、指導グループの一員としてこの舟を守っていこうと決めていた。

(そのためにも、いまは大川先生の言葉を信じよう)

そんなふうに私は自分を説得した。

(こんな私にも、大きな使命があると言われるのだ。何を迷うことがある。命懸けで自分の使命を果していこう)

一日も早く離婚手続きをすませ、先生との同時結婚式を挙げなければならない、と私は観念した。急流を下る小舟の揺れは大きい。私の心も大揺れに揺れた後、大川隆法を信じ切るほうへ落ちついていった。

 このときから大きな不幸が始まった。

信じれば信じるほど苦しみが増した。

本源の絶対神を信じたつもりでいた。だが実際は大川隆法という人物を信じようとしていたのだ。妄信狂信に走ったと非難されても しかたないだろう。

世の中には、残念なことに、信仰ゆえに陥る不幸というものがたくさんある。それらはすべて、信じる対象を取り違えたところから起きてくるもののように私には思えるのである。

 このことは合同結婿式で有名になった統一教会にもあてはまるだろう。世界の宗教を統一するという原理思想は確かに素晴らしい。しかし信者たちは、その思想より、それを語る文鮮明を信じ、文鮮明という人物に我が身をあずけ、ついには合同結婚式という非人間的なものにも平気で自分を従わせてしまったのではないか。

 私たちの〈幸福の科学〉も、この悲劇と無縁ではなかった。信者同志の結婚は教団組織を固めていくためである。後でも触れることになるが、私の知るかぎり当時の〈幸福の科学〉では、五つか六つの神託結婚が大川によって命じられた。それをきっかけに会を離れていった者もいる。結婚はしたものの長続きせず、互いに深い傷を負って別れた夫婦もある。

今日まで続いているのは一組にすぎない。その一組も、それまでのカップルを強引に引き裂き、別の相手と結びつけたものだったから一騒動 持ち上がっている。

誰の心にも大きな傷を残した。どのケースも〔幸福〕とは かけ離れたものだった。

ほんとうに天が望むなら大川が何をしなくても、いずれは結ばれたに違いない。なぜ大川は〔神託〕などという言葉を持ち出し、そこに不自然な手を加えようとしたのか。言うまでもなく会の組織づくりのためである。

 ここで、当時の中原幸枝と私が、会に占めていた位置を考えてみよう。

すでに述べたように、中原は初期〈幸福の科学〉の物心両面での最大の支柱であった。彼女なくして〈幸福の科学〉は存在しなかったと言っても過言ではない。

いっぽう私は、大川の目には会の経済的な支援者と映っていた。彼の『幸福の科学入門』という本の中で、私は大黒天の一人として紹介されている。

釈迦が教えを説き始めたとき、土地の長老が精舎(僧院)を寄進し、物質面から僧侶集団を支えた。法が説かれるところには必ずそういう経済的支援者が現れる。それが大黒天であり〈幸福の科学〉には三人の大黒天がいると大川は書いている。

第一の大黒天が私。第二は秋山行男。第三は高橋守人だった。この三人の大黒天は、現在一人も会に残っていない。

機関紙や『高橋信次霊訓集』の発行に尽力した高橋はパージ同然のかたちで会を去った。秋山のほうは、新事務所への移転に際しOA機器やデスクをはじめ一切の什器類を寄贈してくれた会員である。その後 大川があまりに彼を持ち上げたため「まだしぼり取られるのか」と気味悪がって退めていった。

 新しい会員を集めるのもいい。しかし草創期に、おのれの何がしかを犠牲にして活動に打ち込んだ大黒天たちが なぜ去っていかなければならなかったのか。

それを反省することなしに会のほんとうの発展はありえないだろう。

 精神的支柱であった中原と、物質的支援者である私。この二人を組み合わせようとしたところに、したたかな計算を見るのは私の邪見だろうか。しかしそうでもなければ、まだ離婚も整わない私と、結婚などまるで眼中にない中原を、誰が強引に結びつけたりするだろう。

(二人が夫婦として尽くしてくれたら、会にとってこれ以上ない強力な武器だ)と考えて、まるで将棋の駒を動かすように、私たちに神託結婚を命じたのだろうか。

その判断は読者に委ねるしかない。
 
 


『虚業教団』7

虚業教団7


《幸福の科学は幸せを科学したか?》

 やむなく私は妻との離婚話を急いだ。しばらく遠のいていた我が家へ重い足を向けた。

次女の合格までは形だけでも夫婦でいようと決めながら「一日も早く」と迫る夫を、父を、妻や娘たちは何と思っただろう。

予想したことだが妻は私の要求に態度を硬化させた。

「なぜ、そんなに急ぐの。急に除籍しろなんておかしいわ」

しかし私は、神様の指示で中原と結婚することになったとは、どうしても言えなかった。仮に言ったとしても信じてもらえたかどうか。

「こんなに急に無理を言われるなら、貰うものは思いっきり貰ってやるから。そうじゃなければ、絶対に離婚には同意しない!」

妻はいきり立ち、叫びつづけた。冬だというのに汗をかき、その後頭部からは赤い炎がポッポッと燃えているのが見える気がした。

 あのときの妻はじつは菩薩ではなかったか、と思うときがある。菩薩という愛の仏は、ときには恐ろしい憤怒の顔をした不動明王の姿をとって現れ、手にした縄で人を縛り、剣で切り刻んでまで、その魂を救済するという。人の道に外れてはならぬと、妻は私に訴えていたのである。

しかし悲しいかな、当時の私は、神の心が通じない愚かな女としか見なかった。
 こんなふうに私と妻が醜くケンカしている家の二階では、高校三年の次女が、間近に迫った大学入試のために振り鉢巻で勉強していた。新築間もない日本家屋だったが、両親の口論は筒抜けだったに違いない。たぶん勉強も手につかなかっただろう。

どんな気持ちで机に向かっていたかと思うと、今でも胸が痛む。これは中原も同じだったらしい。後々の結婚生活の中でも「娘さんに申しわけない」というのが彼女のロ癖だった。

娘のことを考え、早々に切り上げて会社へ戻った。苦しかった。苦し紛れに、私は思わず中原に電話した。

「こんなことをさせる神様は間違っていないか。あまりにも無慈悲だ。あなたから大川先生に、あと2ヶ月だけ待ってくれるよう伝えてほしい」

 すると中原は、昨日大川に言われたという言葉を私に伝えた。
「恭子さんの身にもなってみろ。彼女は両親の反対を押し切ってまで決意したんだ。早く会員に発表してもらいたいと心待ちにしている。関谷さんは、そのくらいのことが解決できないのか」

そう責められて、中原も困っているということだった。

大川はいつも中原を通して私と話をした。直接話そうにも、話せないように素早くお膳立てができてしまう。これは彼独特の、一種の処世術だった。


 この処世術は、会が現在のように巨大化してからも変わっていない。あのフライデー事件のときも、一人の事務局長を通して指令が下っていた。幹部こそいい災難である。指示を忠実に実行しようとして知恵を絞り、その結果がよければ、主宰の指導がよかったということになる。もし悪い結果が出たときは、末端会員の批判はその幹部に集まり、自分がツメ腹を切らされる。

ご本人は奥にいて、滅多に顔を見せない。したがって真実の姿は一般会員にはまったく見えない。そのほうが確かに神秘的である。講演会の後の質疑応答でも、霊言を求められると、大川はよく「安っぽくしたくないから」と言って断っていた。霊言に安っぽいも高いもない。神秘というベールをまとうことが必要だったにすぎない。

 事実、最近の講演会では、そのベールの向こうの姿に向かって会員たちは喜んで感激の涙を流している。大川の写真がご本尊として拝まれる。大川という宗教的天才、いや組織づくりの天才の目論見が、計算どおり実現していると言ってもいいだろう。

 私たちの離婚話はこじれにこじれていた。

妻は、世間で言うところの良妻賢母の典型だった。私の自慢である二人の娘を立派に育てたのは妻だと思えば、どんなに感謝してもし尽くせない。

それにくらべ、私はどうだったろう。妻や子からすれば〔得体の知れない宗教〕に入れあげ、娘の入試直前に乗り込んできて「一日も早く別れろ」と迫る男。どう考えても言いわけのしようがない。家族すら思いやれない男が〔与える愛〕を説く〈幸福の科学〉の幹部であることがすでに間違っていた。

 とくに二番目の娘には思い出が多い。小さい頃から勉強嫌いで「中学を卒業したらすぐに働くから」と言い張っていた子である。テストの点数を見て「これだと どりだな?」と私が尋ねると「心配ないよ、トト。もう一人ナオミちゃんがいるんだよ」と無邪気に笑っていた。

そんな子が今、大学を目指して一生懸命勉強している。私はといえば、その勉強部屋の下で妻と大声でケンカしているのだ。娘よ、何という愚かなトトであったことか。たとえ両親が離婚しょうと、子どもには愛され、尊敬されるトトでいたかったと思う。

親として あたりまえのその希望を、私は自らの手で砕いてしまったのである。

 こんな家庭の地獄化と時を同じくして、職場でも健康面でも次々と不幸が重なった。

新しい年(88年)に入った正月8日。ちょっとした不注意で転倒した私は、したたか肩を打ち、鎖骨骨折で2ヶ月間もサポーターを巻いていなければならなくなった。独り暮らしだから、下着の着替えにさえ困った。

夜はその肩が痛んで眠れない。籍のことは急がされる。妻とは激しいケンカがつづく。

娘の受験も心配である。おまけに、仕事には今までのような勢いがなく、創業以来はじめて赤字になりそうな形勢だった。会の仕事に追われていた私と社員のあいだにはミゾが生じ、かつての楽しい職場は見る影もなくなっていた。もう「泣きっ面に蜂」どころではなかった。

 このように私の状態が悪くなっていくのと反比例して〈幸福の科学〉の業務は次第に膨らんでいった。私の役目もどんどん増える。それでも会議の前後に大川を送り迎えするのは、相変わらず私の役目だった。私は片手で運転し、大川の乗り降りの際には、使える左手で後部座席のドアを開閉していた。

 私の全面的な譲歩によって、ようやく妻との離婚問題が決着した。籍を抜いたことを報告すると大川は非常に喜んでくれた。その慰労もかねてだろうか、大川の婚礼が近づいたある日、二つのカップルが新宿のホテルで食事をともにすることになった。

 主宰夫人となる木村恭子は、当時まだ東京大学の四年生だった。色白で鼻の高い、西洋風の顔だちだった。秋田県の医者のお嬢さんと聞いていたが、物静かで、おとなしそうな女性だった。

とても印象深く覚えているのは、私の心をくすぐった恭子のひと言である。

「釈迦の時代の高弟たちも、みんながみんな家族と円満に別れて出家したのではないと思いますよ。それぞれが、関谷さんのように大問題を解決して自分の道を選び、生涯を懸けたのだと思います」

Sekiyaとネームの入ったボールペンを恭子から贈られた。さすが先生の選んだ人だと妙に感心した。

「関谷さん、中原さんの歳を知っていますか」

大川が突然 私に尋ねた。じつはそのときまで、私は彼女の正確な年齢さえ知らなかったのである。そんな二人が間もなく結婚する。思えば不思議なカップルだった。

「20代ではなさそうですね」と答えたのは、若い恭子の前で中原の年齢を云々したくない気持ちが働いたからだ。

それを聞いて大川は、私たちが びっくりするほど大笑いした。そして、こんなふうにつづけた。

「30代……でもなさそうだしな」


私はハッとした。一瞬の沈黙があった。だが、そんなことを気にする中原ではなかった。

再び笑いが起きた。たわいなく笑い合う私たちは、おそらく誰が見ても幸せな二組のカップルだったろう。

 後になって、この場面を思い出すたびに、機転の利かなさを呪ったものである。「そう、40代でも50代でも、60代でもなさそうですね」と、なぜとっさに出てこなかったのだろう、と。

 恭子が口にした釈迦の高弟との比較は、私をいい気持ちにした。正法流布に一生を捧げよう。大川先生を信じきっていこう。あらためてそう決心した。

この単純さを、読者は笑うだろうか。

一挙に押し寄せてきた不幸なできごと。家庭の崩壊、商売の衰退、社員との行き違い、肩の骨折などはすべて、私にこの道を進ませようとする神の導きに違いない……。ここに自分の天命があるのだと、無理にでも納得するほかなかったのである。

幸福ではなかった。だから、なおさら幸福を科学する必要があった。
 
 


『虚業教団』8

虚業教団8


《奇妙な大川主宰との相互仲人》

 4月10日に大川隆法と木村恭子の結婚式が杉並会館でおこなわれた。

 その日まで中原幸枝と私は目まぐるしく動きまわった。赤坂プリンスホテルでの結納、式場選び、式の手配から主宰夫婦の新居の整えまで、あらゆる準備が私たちに任されていた。会の仕事も他の幹部と同じようにこなさなければなかったから、その忙しさは大変なものだった。

 当日は、会場に80名ほどが集まっただろうか。新婦の同級生らしい娘さんが四人ほどいた以外は、すべて〈幸福の科学〉の会員だった。

(これは仏陀の結婚式なのだ)

誰もがそう思っていた。
媒酌人として挨拶に立った私の言葉も、そういう全員の思いを代弁していた。

「今、私たちが立ちあっているのは、偉大な魂の再来が挙げる結婚式です。霊性時代のはじまりを告げる式に私たちは臨んでいるのです」

そんなことを私は緊張しながらスピーチした。

シンセサイザーやレーザー光線を駆使した〔御生誕祭〕をご存じの方は、さぞかしハデハデしい演出が施されていただろうと想像するかもしれないが、結婚式としてはむしろ質素で、新しい時代に向かって運動を起こしていこうとする人々の集いに相応しい張り詰めた空気が漂っていた。

型通りに一通りの式がすむと、30分ほど大川の演説があった。物の時代はすでに終わった、これからは心の時代である。そんな話だったように記憶する。

結婚式の後、恭子はすぐに主宰補佐に任じられた。

 中原と私の結婚式のほうは2ヶ月後の6月26日に、大川夫妻の媒酌によって、やはり同じ杉並会館でおこなわれた。

複雑な気持ちで中原と夫婦の誓いをした。ただ一つの救いは、中原の両親がとても喜んでくれたことである。私は前々から彼女の父親と親しく、ゴルフの趣味も一致していたから一緒にフェアウエイをまわり、ゴルフ談義によく花を咲かせたりしていた。ご両親にしてみれば40を過ぎて、一生独身かと思っていた娘が、突然結婚すると言いだしたのだから、その喜びはひとしおだっただろう。

このお父さんのことでは、大川が一つの予言をしていた。

「中原さんのお父さんの寿命はもうほとんどない。6月いっぱいもてばいいほうだ。生きているうちに、娘の花嫁姿を見せてあげなさい」

それを聞いていたから、私たちは大いにアセッた。中原の父親は20年前に直腸ガンで死を宣告されたこともある。奇跡的に回復したが、そういう過去が大川の予言に真実味を与えていた。どうにかして6月中に式を挙げなければ、と私たちは思った。中原も最後の親孝行のつもりだったろう。

 ところが、この予言は見事に外れた。5年後の今もピンピンしていて、毎年100日以上もフェアウエイに出る。これは、いったいどうしたことか。しかし会の中では、あのときの予言に触れようとする者は一人もなかった。

稀に外れた予言なら話題にもなる。しかしことごとく外れては、話のタネにもならないということなのかもしれない。

ところが困ったことに、大川はことのほか予言が好きだった。何かあると、あいつはどうなる、あれはこんな結果になると口にした。その予言が全滅に近い。よく当たったのは経済的な動向だったが、元商社マンの彼にはお手の物だったろう。

 にもかかわらず、大川自身は自分の予言能力を信じきっているフシがあった。

後にGLAとのあいだでトラブルが生じたときもそうだった。大川は、GLAを率いる高橋佳子が間もなく死ぬと予言した。ケンカ相手の死を予言する幼稚さは、まあ措くとしよう。それだけなら一種のイヤミと解釈できる。

しかし彼は、佳子の死を本気で信じ、密かに心待ちしていた。大川に命じられ、新聞の訃報欄に毎日目を通すのが、その頃の私の仕事だったのである。

 ところで中原と私の結婚生活はどのようなものだったろうか。

それはまことに奇妙な夫婦だった。私たちは車庫付きの豪勢なメゾネットタイプの新居に入った。大川夫妻の住まいより立派なのが気が引けたぐらいの豪華さだった。断るまでもないと思うが、これは会から提供されたものではもちろんない。

そのメゾネットの一階と二階に別れて、私たちは生活した。最初に私が予感した通り、セックスのない兄妹のような夫婦生活。一度もベッドを共にすることなく、それに不満も不自然さも感じなかった。不自然なのは、そういう二人の関係ではなく、無理やりつくられた夫婦という形だった。

ただ一度だけ、これも大川の「いよいよ関谷さんのところに赤ちゃんが生まれる」という予言で、子どもを産もうかと中原と相談したことがある。しかしさすがの主宰も、生涯を懸けた中原の生き方までは崩すことができなかった。

 もっとも私たちには、普通の夫婦が持つような家庭的時間は、まったくと言っていいほどなかった。会の仕事に追われ、食事も家でした記憶はあまりない。夜は夜で、会員のレポート採点が待っている。〈幸福の科学〉が私たちの生活のすべてだったのである。
 
 


『虚業教団』9

虚業教団9


《神託結婚は大川隆法の「霊的現象」?》

 真実の教えは「理証」「文証」「現証」の三つの証をそなえていると言われる。

「理証」とは、シッカリと筋が通り、論理的に人を納得させ得る教えであること。実際に体験してみなければ宗教はわからないという人もいるが、真の教えは決してそういうものではない。

「文証」とは、その教えが仏典や、先人の言葉に根拠を置くものでなければならない、ということ。独りよがりの教えは、仮にそれがどんなに素晴らしくても、真理ではあり得ない。

三つ目の「現証」とは、現実を変える力があること。たとえばキリストは、足萎えを立ち上がらせ、盲人の目を開かせた。通俗的な言い方をしたら、奇跡とか霊的現象ということになるだろう。

 この三つは「三証」といい、真実の教えには必然的にそなわるものである。

大川隆法の〈幸福の科学〉には、この三つがそなわっていただろうか。

東大卒という経歴を持つ大川の教えには、きっちりとした論理が確かに存在していた。

また本の虫だったという彼の言葉には、仏典や聖書、先人の教えが きら星のごとくちりばめられている。「理証」も「文証」も問題はなさそうだ。私はもちろん多くの会員が、この二つに引かれて会に入ってくるのである。

では三番目の「現証」はどうか。

すでにお話しした通り、大川の予言はことごとく外れている。どうやら予知予言に関する「現証」はないらしい。ではキリストのように悪霊を払って病気を治したか。その的確なアドバイスで悩める人を救ったか。三年半のあいだ身近に接していた私は、これにも「否」というしかない。

 これに関して大川はいつもこう言っていた。「いくらでもできるけど、来る人が病人ばかりになったら困るからやらないんですよ」

そう〈幸福の科学〉はご利益信仰の新興宗教とはそもそも違うのだ。神理探究の場であるから、病気治しなど必要ない。

しかし、もしそれができるなら、なぜ兄の富山誠に憑いた悪霊を追い払わないのだろう。

富山に悪霊が憑依していることは、すでに最初の霊言集である『日蓮聖人の霊言』にも書かれている。その兄が若くして脳溢血で倒れ、今も廃人同様というのに、なぜ放っておくのか。まさか子ども時代に比較され惨めな思いをしたという兄に対する恨みがあるわけではないだろう。

病気治しをしてほしいのではない。もし大川に人を救う力があるなら、身近にいる家族に、仲間に、会員に、手を差し延べてほしいと思うのである。

 大川は一般会員とはほとんど接しなかった。普通の人間でもするような個人的アドバイスさえ聞いたことがない。「自分で解決できないのか」のひと言で切られてしまう。

そのことは『日蓮聖人霊示集』を読んでみるとよくわかる。大川のもとに寄せられた悩みに答えを与えるという体裁をとりながら「誰々の寿命はあと何カ月」とか「こんな恐ろしい未来が待っている」という、当たらない予言を連発しながら、相談者を脅しにかかっているだけ。救いをもたらすようなアドバイスはどこにも見つからない。

天上界の構造や先人の教えには通じていたが、大川主宰は人の心、人生の喜びや悲しみを理解しようとはしなかった。私にはそんなふうに思える。

 GLAの高橋信次は、初対面の相手でもその経歴をたちどころに当てたという。しかし大川にそんな芸当はできない。ソ連の崩壊や円高は、元商社マンとしての知識で予見できても、人生経験の乏しいこの青年には、ひと目で相手の素性を見抜いたり、的確なアドバイスをする能力は欠けていたのである。

 しかし大川は、自分にはすでに〔六大神通力〕が与えられていると公言していた。私たち会員もそれを信じきっていた。それも実に素直に信じていた。証拠といえば、大川自身の言葉しかなかったにもかかわらず、である。

ずっと後のことだが、幹部の一人と昼食をとりながら、雑談の中で大川に対する批判めいた言葉を交わしたことがあった。その頃になると古くからの会員は婚かれ少なかれ疑念を持ち始めていた。食事を終え本部へ帰ろうとしたとき、その幹部が心配そうに私を見ながら怯えた声でこう言った。

「今の話はみんな、大川先生にツツ抜けじゃないか。大丈夫かな」

思わず私の声は高くなった「ゼーンゼン。聞こえてなんかいないよ。何もわかりはしないんだから」

大川隆法は、私の知るかぎり奇跡はおろか霊的現象すら一度もあらわさなかった。このことは彼自身が一番よく知っていたと思う。頭脳明晰な大川のことだから、奇跡を起こせない霊能力者であるという、痛切な自覚があったに違いない。
 そこで彼は「これほど多くの本を次々と出せるということが奇跡なのだ」と言っていた。わずか三年ほどのあいだに100冊以上の本を著わすのは、それを奇跡と呼ぶべきかどうかは別として、確かに並の人間ワザではない。

本の出版のほかにもう一つ、大川が奇跡、霊的現象と呼んでいたものがあった。それが神託結婚である。

「天上界の指示で会員が思わぬ人と結婚していく。これこそ霊的現象にはかならない」

その頃は公の席でもそのような発言をしていた。言い換えれば、霊的現象をあらわせなかった主宰先生は、神託結婚に「現証」を求めたのである。

そうした「現証」をいくつか紹介してみよう。

〈館田隆夫と間田まゆみの場合〉
青年部の講師だった館田隆夫には10年来の恋人がいた。たぶん二人の仲がうまくいっていなかったのだろう。大川に相談すると、同じ青年部の間田まゆみと結婚せよ、という神託が下った。以前の恋人からのイヤガラセもあり、菅田はかなり悩んだようだが、最終的には結婚に至った。現在は二人とも会を辞めているが、皮肉なことに、私の知るところでは今まで続いている唯一の神託結婚カップルである。

〈岡本春絵の場合〉
関西在住の会員・岡本春絵に示された神託結婚の相手は大阪支部長だった。彼女が資産家のお嬢さんだったことを考えると、私の場合と同様、そこにも何かの計算があったことを疑いたくなる。まことに悲しい私の性である。彼女は結婚を拒否して脱会した。

〈河本裕子と石田尚路の場合〉
婚約していた河本裕子と石田尚路は、神示によって別れている。河本の霊は石田の霊より格が高く、格の低い霊との結婚を悲しんでいる、というのがその理由だった。

〈阿南浩行と佐藤真知子の場合〉
佐藤真知子との神託結婚を拒んだ阿南浩行は、大川の信頼を裏切ったとして断罪され、追放同様に退会していった。これは〔阿南事件〕として会を揺るがす大騒動に発展したが、詳細は後に述べることにしよう。

 このような悲喜劇を見ながら、私たちはまだ大川隆法を絶対と信じつづけていた。

いや絶対と信じ込もうとしていた。疑いを押し殺し、無理やり信じていた。自分自身の心を正直に見つめる勇気を私たちは欠いていたのである。

 自分の心をもっとよく見つめるべきであったと思う。本源の神は、教祖に降りるのではなく、私たちの心にこそ宿っている。心の奥にある神に匹敵する人間など、たとえ聖人だろうと霊能力者だろうと、断じていないことを、この際ハッキリさせておこう。

 冷静になって聞けば〔神託結婚〕など誰でもおかしいと思うだろう。そのおかしさの結果が、ここに挙げた悲喜劇である。しかし私たちはみんな、自分の自由意志で勝手には動けないと感じていた。

「これだけの本が頭で書けると思うか!私を信じない人がいたら、それは天上界すべてを否定したことになるのだ」

誰もかれも自分の〔浅はかな思い〕を否定し、大川の方針に従って進んだ。自分の心を見ないで、大川の言う天上界を見ていたのである。真理は我々の心の中にこそあるというのに。

 疑いに苦しんだ者は、さらに忠実な信者となって励んだ。雨降って地固まるように、会は急速に発展していった。
 
 


『虚業教団』10

虚業教団10
真っ黒な雲の魔女
大川夫人の登場と会の変質
二人の仲は急速に発展した



第3章「裸の王様」への道
《真っ黒な雲が覆いかぶさってくる》

 大川隆法の結婚前に、中原幸枝が一人の老婆を講演会に連れてきた。人のよさそうな田舎弁丸出しのおばあさんだったが、中原によると、なかなかの霊感の持ち主であるという。

その老婆は講演会が終わってから感に堪えない様子でこう言った。

「お話は難しくてよくわからなかったが、あの先生(大川)からは金色の後光が射しとった。いいところへ連れてきてもらって、ほんとにありがたい」

霊感とか霊能力には比較的冷淡な私も、こんなふうに自分の参加する会が褒められるのは悪い気がしなかった。

 大川が結婚してから、老婆が再び講演会に顔を出したことがある。このときも中原が連れてきたのか、自分から会場へ来たのか、そのあたりの私の記憶は曖昧である。

しかし大川について、次のように語ったのが強烈な印象となって残っている。

「前に聴かせてもらったときは、金色の光が見えたにねぇ。今日はどうも違う。先生の後ろに魔女がいて、まっ黒い雲を吐き出している。それが、わしらのほうへかぶさってきて、えらく気味悪かったよ」

いま考えると不吉な言葉である。しかしそのときは深くも考えなかった。日によって変わる〔老婆のたわ言〕ぐらいに受け止めていたと思う。

老婆が見たという〔魔女〕に、現在の私は思い当たる一人の女性がいる。彼女の中高の鼻は西洋の魔女のわしっ鼻と似ていなくもない。その女性が魔女なのだと言うつもりは、私には毛頭ない。主宰先生のように「あの人には悪霊がついている」とか「彼は悪魔だ」などと言う趣味を私は持ち合わせていないからだ。

しょせんは老婆のたわ言である。しかし、あのおばあさんは大川に、あるいは会に何か良からぬ変化が起きているのを直観的に感じとったのではなかったか。それを、たまたま魔女というイメージであらわしたのではないだろうか。

問題は彼女が魔女かどうかではない。老婆の言った〔魔女〕という言葉に、私がその女性を思い浮かべるようになったという、その事実である。それには、もちろん理由がある。その理由は〈幸福の科学〉を神理探究の場から、会員獲得を第一義とする宗教団体へと変質させてしまった、その原因のひとつと重なっている。

大川の結婚を境にして〈幸福の科学〉は急速に変質していったのである。


《大川夫人の登場と会の変質》

 最初に申しあげておきたいと思うが、私は個人攻撃をするつもりはない。教団というものが、いかに人を本源の神から遠ざけてしまうか。そのことを〈幸福の科学〉という一つの集団を例として、また〈幸福の科学〉に人生を懸けた愚かな男の悩み、苦しみを通して、一人でも多くの人にわかってほしいという願いから、こうして筆をとっているにすぎない。

私が大川主宰や、そのまわりの人に批判の目を向けるとしても、それは会の行き方を検証したいがためである。というのは、彼らもまた私たちと同様、宗教団体という魔力の犠牲者である。本源の神から人を遠ざけてしまうものを検証するには、彼らにも裸になってもらわなければならない。

あの童話の幼児のように「王様は裸だ!」と、誰かが叫ばなければならない。


 話は大川の結婚式の半年前にさかのぼる。

1987年11月の21日から三日間、茨城県の大洗で研修会が開かれた。いくつかの意味で〈幸福の科学〉の今後を決定することになった特筆すべき研修会である。

三日間の研修だから、当然泊まりがけになる。どんな集団でも、そうした合宿などでは特別な雰囲気が生まれる。このときは若い女性グループが妙に はしゃいでいた。ワーワーキャーキャー騒ぎながら、まるで人気タレントのように大川をあつかった。今にして思うと、これが我が師を大いなる覚者から宗教タレントへ変貌させるきっかけであった。

 佐藤真知子という20代半ばの女性会員が、そのグループの中心になっていた。婦人部講師だった母親をはじめ、一家をあげて熱心に活動していたから、生え抜きの若手と言っていいかもしれない。大柄な体に相応しく屈託のない天真爛漫な性格で若い女性たちのリーダー的存在だった。もっとも、30も年の違う私から見れば、そんなところが可愛い娘さんだった。この若い女性たちのグループ、自称アマゾネス軍団の一人が、ボランティアとして会の活動にかかわっていた東大生の木村恭子である。

 以下に述べるのは直接私が見聞きしたものではないことを断っておく。しかし最も身近にいた人間から伝え聞いたものであるから、真実と考えてもらっていいと思う。


《二人の仲は急速に発展した》

「先生に直に指導していただかなければ、霊道の開けてしまった私は死んでしまう」

手紙にはそんなことが書き連ねてあったという。「大洗での講義のとき、先生は私を意識していましたね」ともあったらしい。なかなか可愛いではないか。恋愛経験の少ない自意識過剰な若い女性なら、そんなふうに思い込むのは不思議ではない。

ラブレターをもらったほうも、大川の本を信じる限り、デートひとつしたこともないぐらい恋愛経験に欠けていた。学生時代には、一度しか話したことのない相手に、ラブレターを小包にして送っていたというから純情さではひけをとらない。

そういうカップルにありがちなケースだが二人の仲は急速に発展した。まず中原が大川の指示で恭子にコンタクトをとる。そして、キューピットさながら主宰先生の逢瀬をとりもった。その場で、すべてが決まってしまった。わずか一ヶ月後には吉祥寺の料亭「双葉」において、私に結婚を打ち明けている。

 大川と恭子の婚約発表に、彼女を知る会員たちはさぞかしびっくりしただろう。先日まで職員の手足となって働いていたボランティアが、しばらく顔を見せないと思ったら、なんと主宰夫人になるという。とりわけ真知子にとっては、青天の霹靂のはずである。

 結婚の縁というものは、恭子の著作『愛を与えることの幸福』によると「今世の魂修行の重要課題」に従って決まってくるという。としたら、この結婚にこそ大川隆法の本質がハッキリと現れていると言ってもいいだろう。

大川夫人の登場と時を同じくして〈幸福の科学〉は大きく変質していった。神理を探究する人々の集まりの場から、会員を集めることに狂奔する、ありふれた新興宗教の一つへと転落を始めたのである。

 その変質は、たとえば大川父子の反目という、具体的なかたちをとって現れてきた。

〈幸福の科学〉の初期の講演会では、講師は常に大川隆法、善川三朗の二本立てだった。

それが次第に大川一人が講演するようになり、父親である善川のほうは独自で講演会を催すようになる。同じ〈幸福の科学〉の看板を掲げて開くのだが、何万人も集める大川にくらべ、父親の講演会は今もってこじんまりしたものらしい。

あの東京ドームでのハデハデしい〔御生誕祭〕も常識人である善川の反対を押し切っておこなわれたと言われている。

こうした二人の関係について世間では大川の〔遅れてやってきた反抗期〕などと面白おかしく揶揄しているが、ことはそれほど単純ではないと思う。

 私の知る範囲でも、いくつかの理由がある。一つは会の運営方針をめぐる対立。会員獲得を第一義とするような会の拡大路線に善川は猛反対だった。高橋信次のGLAや、谷口雅春の生長の家の信者だったこともある善川には、地道に信者の生活や心の改革に取り組むのでなく、数字的な拡大を図ろうとする大川の方針が危ういものに思われたに違いない。

 結婚後、急速に拡大路線に転じ始めた会の方針に、夫人の影響を見るのは私の読みすぎだろうか。

少なくとも夫人は義父にあたる善川を忌み嫌っていた。

義父が四国から はるばる上京してきても、決して自分たちのところに泊めようとしなかったのは、当時の幹部のあいだでは有名な話である。すぐ近くに息子の豪邸があるにもかかわらず、父親はホテルに宿泊していた。そればかりか息子の若い嫁は「お義父さんには悪霊が憑いている」などとまわりにもらしていたのである。

「30をすぎて独身では、かわいそうだからなぁ」

クルマの後部座席でつぶやいていた老父を、私は淋しく思い出す。

もっともこの女性は誰に対しても「悪霊が憑いている」と言っていた。

「家に帰ると〔今日は何々局長の悪い霊を憑けてきた〕と言われるんだ」

大川が苦笑いしながら、こぼしたことがあった。

主宰先生は夫人の尻に敷かれているらしいというのが、二人をよく知る人間の一致した見解だった。現代の釈迦が妻に頭があがらない。ソクラテスのようでもあり、微笑ましい人間味を感じる。しかしそれが会のあり方を左右するようなったら話は別だ。後のことになるが、フライデー事件の際にも夫人からの指示がファックスで本部へ送られてきていたという。

 阿南浩行と佐藤真知子の神託結婚にも、大川夫人の意見が多分に反映されたと見ていいだろう。大川一人では、阿南の相手に真知子を思いつくとは到底思えない。それほどこの二人は性格的にも、実際のつきあいにおいても距離があった。
真知子に意識がいく人間がいるとしたら、かつて彼女の〔子分〕だった大川夫人以外にないと思う。

もしかしたら昔の〔親分〕に自分が手にしたばかりの権力を誇示したかったのかもしれない。

 こんなことを書くのは、私としても悲しい。品性が疑われるかもしれない。しかし書かなければならないだろう。いま何百万人の会員がいるか知らないが、決して少なくない人々が〈幸福の科学〉の大川主宰や主宰補佐である夫人、また善川顧問夫婦を神を仰ぐような目で見つめている。

しかし彼らも私たちと同じ人間なのである。権力欲や妖妬にも駆られるし嫁舅の行き違いもある。30をすぎた息子が独身でいることを心配したり、妻にやり込められたことを苦笑いしながらこぼすような、どこにでもいる愛すべき人たちなのである。

 問題は、そういう人間を絶対視するところから起きてくる。
 
 


『虚業教団』11

虚業教団11
大川ファミリー経営
出版ルートの確保


《大川ファミリー経営の企業=幸福の科学》

 昨日まで一会員だった木村恭子が、結婚によって、たちまち主宰補佐になったときも、会員のほとんどは当然のこととして受け止めた。

しかし学習団体であったはずの〈幸福の科学〉が、いわば縁故関係から一会員を主宰補佐という重要な職に任じたとき、会は明らかに変質していた。これは大川隆法の出身大学である東大の学長夫人が、副学長になるようなものなのである。

私立大には理事長という職がある。その奥さんが副理事長になるならわかる。理事というのは教育に携わるのでなく、経営を担当する役職なのだから。大川夫人が補佐になったという事実に、主宰や補佐が実は〈幸福の科学〉の経営者であったことに、私たちは思い至るべきだったのではないだろうか。

 そういえば善川夫人(中川君子)も顧問として特別な立場にいる。さらに主宰、主宰補佐、顧問にはかなりの額の〔役員報酬〕が支払われていることも忘れてはならない。

「でも大川隆法の莫大な印税の中から支払われているのだから、たいしたことないでしょう。息子が稼いで、親に仕送りするようなものだから」と言う人がいるかもしれない。

多くの人が〈幸福の科学〉の経費は本の印税で賄われていると思っているようだ。確かに次々にベストセラー入りする本の印税は莫大な額にのぼる。もちろん大川の本がベストセラーになるのには仕掛けがある。まず会員になるには本を10冊読まなければなれない。

また新しい本が出版されるたびに、会員は半ば強制的に20冊30冊と買うことを要求される。ベストセラーにならないほうがおかしい。

その印税は、すべて大川の個人的な収入になるのである。少なくとも、私が脱会するときまではそうだった。会員に買わせた本の印税が個人の収入になる。これは常識的に考えてもおかしいと言わざるをえない。

 あるとき会の運営費が不足したことがある。

「先生の印税を会に入れてもらえませんか」

ある局長が何気なく言ったとたん、主宰先生は烈火のごとく怒ったものだ。

印税のうえに、会の経費から主宰、主宰補佐、顧問夫妻に〔役員報酬〕が支払われる。

大川や善川がそれを受け取るのはいいとしよう。しかしどうして、大川夫人や善川夫人にまで〔報酬〕が払われるのだろう。これでは、どこにでもある中小企業の経営体質とほとんど違いはない。

 大川ファミリーが経営する会社。それが〈幸福の科学〉の実態だった。

直接経理にタッチしたこともある私は、彼らにどの程度の額が支払われていたか知っているが、それは敢えて言うまい。〔役員報酬〕の多寡が問題なのではない。ひとつの組織として見たとき、そこに見えてくるのは日本的中小企業の姿だと言いたいのである。

それは、法を学び法を広めようとするサンガーとは異質なものではないだろうか。

 私がいた89年夏までの〈幸福の科学〉は、それでもまだ神理を学ぼうとする人々の熱烈な思いによって成り立っていた。しかし〔大躍進の年〕とされたその年を通過すると、会員を集め、金を集めることに熱中する集団ができあがってしまった。

 そんな中から3000億円の献金を集め、都心の一等地に77階建てのビルを建設するなどという、破天荒な構想も生まれてくる。

その寄付の募り方が、さすが元商社マンだけあって独創的である。何十万、何百万という単位で会員から借り入れる。利子は会への寄付になる。無利子、無期限で借金するようなものだろう。一人で何千万も出す人もいれば、何人か集まり10万、20万をつくる人たちもいる。何千円といった端数は受け付けないところが、実にドライだ。仮に返還を求める人がいたら、その分は、ほかの会員からの借入金で穴埋めする。

しかし天上界という担保があるから、返還を求めるような会員はめったにいない。実に〔天才的な商法〕ではないか。

各支部には月毎に何億というノルマが課せられる。それがまたちゃんと集まってしまうのである。しかしノルマを与えられる支部長は決してラクではなかっただろう。

 後になって私はよく思ったものだ。
「たくさん人を引っかけて一緒に金儲けしようや」とでも言ってくれたら、どんなにか気楽だったことだろう。たぶん喜んで一緒にやったに違いない。けれど、これほど一生懸命になることも、またなかっただろう。

 ちなみに「こんなことをしたら、どれぐらい引っかかるか」という表現は、私の在籍中でさえしばしば耳にした。会員には信じられないという人が多いと思う。しかし残念なことに、これが〈幸福の科学〉の経営陣の姿勢だった。


《「生命線」出版ルートの確保》

 ここで〈幸福の科学〉のいわば生命線であり、会の発展に大きな貢献をした〈幸福の科学出版〉の設立について述べておきたいと思う。

ご存じの方も多いと思うが初期の霊言集は、潮文社から出版されていた。大川の霊言テープあるいは原稿を、善川が持ち込んでの出版だったらしい。

ところが八冊目か九冊目で、潮文社社長のK氏と大川父子が対立した。

原稿はできても本にしてくれる出版社がない。困っているところへ助け船を出したのが、やはり中原幸枝だった。中原の紹介で、彼女の本を出版したことのある土屋書店がピンチを救うことになった。

また高橋守人が社長をしていたコスモ印刷の協力で、幸福の科学出版名で『高橋信次霊訓集1・2・3』や『神霊界入門』を出している。

第三の大黒天と言われた高橋守人も〈幸福の科学〉の草創期から関わり、苦い思いを抱いて去っていった仲間の一人だった。

 現在は、会とは独立したかたちで、幸福の科学出版株式会社が出版活動をおこなっているが、そのもとになった幸福の科学出版は、もともと高橋が大川に提案してつくられたものと記憶している。大川もいずれは本格的な出版社を持つつもりでいたのだろう。

出版社を興したら重責に据える約束で、高橋に全面的な協力を求めた。前記の四冊などは、出版経費の全額をコスモ印刷で負担している。機関紙の印刷も原価でおこない、会員への発送も会社で引き受けるという献身ぶりだった。

 しかし幸福の科学出版株式会社が設立されてみると、高橋のポストはどこにもなかった。

彼が憤るのも当然だろう。この事件ついては、高橋本人が雑誌やテレビで告発しているので、ここではが詳しく触れない。

 1987年の12月24日、幸福の科学出版株式会社設立。こうしてあらためて振り返ってみると、吉祥寺の料亭で大川の婚約を知らされる、わずか二日前である。発足記念講演会から約一年。大川にしたら得意の絶頂だったに違いない。

出版社はできたが、しかし大手取次店である日販も東販も相手にしてくれなかった。

〈幸福の科学〉も大川隆法も、一般にはまだ無名に等しい。得体の知れない宗教団体がつくった出版社など、誰もまともに付き合おうとしなかった。

印刷することはできるが、書店には並べられないという状態だった。

出版責任者の細田局長が、半年以上も前から流通ルートの開拓に汗を流していたが、どうにもメドが立たなかった。

「関谷さん、顔の広いところで何とか道がつかないだろうか」

局長会議で大川に言われ、私も困ってしまった。クルマの販売なら「任せておけ」と胸を張って答えられる。が、畑違いの本ではどうにもならない。ただ自動車販売の関係者に、あの人ならあるいはと思う人物がいた。

東販と直接コネクションのあるA氏である。幸いなことにA氏の紹介で私が東販を訪れると、話はウソのようにトントン拍子に運んだ。東販の出版コードがとれたとわかると、日販もスンナリと受け入れてくれた。人の繋がりとは、まことにありがたいものである。

 この時点での会員数は、まだ2000人ほどだった。本が全国へ一斉に流れてこそ、今の〈幸福の科学〉があることを思えば、A氏の尽力を得て、まさに私が〈幸福の科学〉の基礎造りをしたことになったわけだ。

会は大川主宰一人が大きくしたのではない。出版部門一つとっても、潮文社のK氏から はじまって、さまざまな人間の助力があった。どの人が欠けても、今日のような発展はなかっただろう。その中には大川から〔石もて追われた〕ような高橋守人も もちろん含まれている。

 しかし中小企業の社長によくあるタイプだが、大川は徹底したワンマンだった。

人材登用の仕方がすこぶるうまい。同時に切り捨てるときは容赦なく、どんな古参の幹部でも遠慮なく左遷し、同じ人間は決して長くまわりに置かなかった。この〔恐怖政治〕は、幹部や職員のあいだに大川のイエスマンでなければならないという空気をつくっていった。
 
 


『虚業教団』12

虚業教団12
ワンマン社長の大川隆法
高橋信次はなぜ霊言したのか


《ワンマン社長としての大川隆法の力量》

 〈幸福の科学〉における大川隆法の管理術は、もしかすると中小企業の経営者にはいい参考になるかもしれない。それは冗談とするにしても、そう思わせるほど鮮やかな手腕を彼は振るった。

ひとつは、優秀な才能を発見し、どんどん抜擢していく人材の登用法である。

この会では、すべてがランク付けされる。この世界そのものが、十次元とか十三次元にもおよぶピラミッド型の世界なのだ。私たちの魂は、その次元を一つでも上へ昇るために修行している。その修行というのは、大川の、あるいは大川を通して現れた霊の説く神理を学習することである。

学習さえすれば、高次元へ行くことができる。〈幸福の科学〉では、実践は必要なかった。愛を実践するのでなく、愛とは何かを学ぶことでより高い次元へ進む。その学習成果を、試験・レポートというかたちで絶えずチェックされるのである。

この試験・レポートが、優秀な才能の発掘に役立った。頭のキレる者、営業センスのありそうな者、人脈の豊かな者はどんどん登用していく。

同時に、会員の獲得で好成績をあげた人間も次つぎに重く用いられた。

 私も、大きな顔で批判する立場ではない。私の退会時にいた100人ほどの本部職員は ほとんど私が直接面接し、採用を決めた人たちだったのだから。会を退めたことも、こんな文章を書くことも、彼らへの裏切りになるとは重々承知している。その罪も自覚している。だが真実を書かずに済ますほうが、さらに大きな裏切りではないか

 人材登用もさることながら、切り捨てや左遷、格下げのほうに、主宰先生はいっそう鮮やかな手並みを見せた。

何かの方針を実行に移す場合、大川自身は決して表舞台に立たないことはすでに述べた。

必ず幹部の一人を通して指示を出す。もし失敗しても幹部の責任となり、大川はむしろ同情される立場になる。

こういう自己保身を図るのも、教団トップとしては止むを得ないことかもしれない。絶対である教祖に、間違いは許されないのである。

 そのいい例が、フライデー事件だろう。

写真週刊誌フライデーに、大川にうつ病の病歴があると載ったとき、対抗策を練るために幹部に招集がかかった。紀尾井町のビルに40人ほどが集まり、会議が開かれた。

講談社 断固許すまじという武闘派と、たかが写真誌の根も葉もない中傷など放っておけという穏健派に分かれ、カンカンガクガクの議論がおこなわれた。議論は白熱するばかりで、なかなか決着に至らない。

詳細は後に譲るが、その時大川が打った手も、一人のキーマンを通じて全体を動かすという方法だった。

 すでに二年前に退会していた私は、その場にいない。これは、そこに参加していた複数の人から聞いたものであるとお断りしておかなければならない。しかし話を聞きながら、私にはその光景が見えるような気がした。相変わらずである。以前とまったく同じ自己保身のテクニックが使われている。

 講談社に対する挑戦が、世間の反感を買うかたちで挫折した今、その幹部は詰め腹を切らせれるように、◯◯支部にまわされている。またテレビの討論番組にも出演して大いに気を吐いた大沢敏夫も謹慎を命じられているという。

私のいた頃から、大川は幹部職員の首を頻繁にすげ替えた。何かあると、すぐに地方の支部へ飛ばされる。そこで会員獲得に功績があれば、また本部へ呼び戻す。ひどいときは、三カ月も置かずに配置替えになる。一人の人間を長く身近に置くことに、何かの恐れを抱いているかのようであった。

もし、私があのまま会に留まっていたら、この第一の大黒天も、どこかの支部へ飛ばされていたに違いない。

 支部長と本部の最高幹部では、天と地ほどの違いがある。一方は、会員集めや寄付集めに奔走しなければならない。しかし他方、私たちは、本部の大先生である。地方へ講師として行けば、下にも置かない歓迎を受ける。女性にとりまかれ、握手やサインまで求められる。三日やったらやめられない、というところだろうか。

 しかし、信じ切れない宗教団体の幹部でいることが、私には苦しくてならなかった。たとえどんなに給料をもらおうと(89年当時「来年は年収1000万にしてやるぞ」と主宰先生はおっしゃっていた)本部の大先生といかに崇められても、自分が信じ切れないものを信ぜよと説く。これ以上の拷問はないのである。


第4章 愛なき教団だから「愛」を説くのか

《高橋信次はなぜ大川陸法に霊言したのか》

 1988年の春、はじめてGLAから正式な抗議文が送られてきた。内容は「繰り返しニセ信次先生の本を出されては困るから止めてほしい」というものだった。それを読んだ私たちは「なにがニセ信次だ!」「信次先生の霊が語っておられるのだぞ」と大いに憤慨した。

 しかしGLAが抗議するのもあたりまえだろう。
86年12月に
『高橋信次霊言集』を出して以来、大川は
『高橋信次の新復活』87年5月
『高橋信次霊訓集』三巻 87年6月、8月、10月
『高橋信次の天国と地獄』88年1月とたてつづけに高橋の霊が登場する本を出版していた。それ以降も
『高橋信次の新幸福論』
『高橋信次のUFOと宇宙』二冊88年6月
『高橋信次のユートピア論』88年8月
『高橋信次の大予言』88年9月
『高橋信次の心の革命』88年11月
『高橋信次の愛の讃歌』88年12月と続く。

 宗教学者の島田裕巳の調べによれば、その霊言集は16冊になり、大川に降りた回数も70回になるという。この数は、ほかの霊とくらべて群を抜いて多い。〈幸福の科学〉を特徴づける最も重要な高級霊なのである。

 GLAとしては、当然心中おだやかではない。亡くなった自分たちの教祖、神とも崇める教団創設者が、こともあろうに何の関係もない他教団に出現し、生前には聞いたこともないような話をしだしたのだから。
 GLAというのは〔God Light Association〕の略で、1969年に高橋信次が設立した「大宇宙神光会」を母体とする。高橋は霊界と自由に交信することができ、その教えでは、顕在意識と潜在意識との間にできてしまった想念帯の曇りを反省によって取り去れば、誰でも神とストレートにつながると説いている。

 この思想はGLAの枠を超え、精神世界に関心を持つ人々に少なからぬ影響をおよばした。善川や大川も例外ではなかった。

大川の『太陽の法』によると、彼がはじめて霊的体験をしたのは高橋の『心の発見』を読んでいる最中だったという。

しかし高橋は、わずか7年の後の1976年、その全盛期に自らの予言通り突然世を去った。残されたのは、当時まだ19歳のお嬢さん、高橋佳子である。偉大な指導者を失ってGLAは混乱し、分裂を重ねた。

一時は50万とも言われた信者や高橋の信奉者は、宙に迷うかたちになり、その数は1万数千にまで激減している。

 そんなとき、不意に別の教団で開祖の霊がしゃべり出した。むろん、宙に迷っているGLA信者や信次ファンを、取り込もうとする大川の戦略でもあったろう。

 たとえば、中原幸枝などは、敬愛する高橋信次の面影を求めて大川に近づいた一人であった。というよりも中原の存在が、大川に高橋信次の霊言を思いつかせたと言ったほうが たぶん正しい。もっと正確に言えば〈幸福の科学〉の高級霊団の中心である高橋の霊は、中原の求めに応じて霊言を始めたのである。

 ここで大川と中原の出会いについて触れておこう。

中原は高橋の存命中からのGLA信者だった。幹部のような特別の立場ではないが、一会員としてずいぶん可愛がってもらったらしい。高橋信次という人は、信者と気軽に接することを好んだようだ。

このあたりは、一般会員の前にめったに現れず、常に本部の奥にいて神秘のベールにくるまっていたい大川とはずいぶん違った。自分の霊的能力、信仰の深さに対する確信の差だろうと言ったら、主宰先生にはこっぴどく叱られそうである。

講演会か何かの後、幹部との面談待ちをしているところへ、思いがけず高橋がひょっこりやってきて「次の人は誰?」と声をかけた。たまたま〔次の人〕が自分であったおかげで信次先生の知遇を得た、というようなことを彼女は語っていた。

中原の父親がガンで余命幾ばくもないと宣告されたときは、ガンにはクマザサの葉が利くというので、わざわざ自分でとってきて届けてくれたという。

 それで思い出すのが、大川の〔顔見せ興行〕である。あれほど一般会員との接触を嫌っていた大川が最近になって、会員と親しく接する機会を正月に設けた。
一人五分前後の持ち時間で、本尊はお顔を拝みたい人がベルトコンベアー式に次々と入れ代わる。しかし、そのためには何万かの拝観料を包まなければならない。この話を聞いて、私は暗澹たる気持ちになった。

 大川の霊言集を読み、中原はそこに亡き高橋信次の思想と通い合うものを感じたらしい。

これは決して不思議ではない。父親の善川三朗が高橋の影響を受けていたし、本人も最初の霊的体験は『心の発見』を読んでいる最中だったと書いている。霊言集の中にGLAの元信者が、今は亡き教祖と似たものを感じたとしても少しもおかしくない。

そこで中原は「大川隆法というこの霊能力者になら、信次先生の霊が降りるかもしれない」と考えたのである。歴史に〔もし〕はないという。しかし、敢えて問おう。もし中原がそんなふうに考えなかったら、はたして〈幸福の科学〉は生まれただろうか。

亡き高橋の面影を求めて、中原は霊言集の出版元である潮文社を訪ねていく。何度目かに訪ねたとき、ちょうど『孔子の霊言』の出版のため大川が上京してきていた。

「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで真に心の師となる人を見つけた」

〈幸福の科学〉の発足前後に、中原はよくそう言っていた。

中原幸枝とのこの出会いが、大川隆法に『高橋信次霊言集』を書かせたと私は推測している。なぜなら潮文社から最後に出たこの霊言集は、それまでの七冊とはあまりにも違っているからである。まず善川というインタビュアーがいなくなり、大川の……いや霊の独自に変わった。

また高橋信次という名前じたい、それまで霊言していた日蓮や空海、キリスト、ソクラテス、孔子、坂本龍馬、卑弥呼などの中に置くと、明らかに異質なものを感じる。歴史の教科書には必ず登場するような有名人の霊言集がつづいていたところへ、ほんの一握りの人しか知らない、しかも死後10年にしかならない人物が突然出現したのである。

内容のほうも「集まれ、団結せよ」と説くアジテーション風に急変していた。

霊言集の日付によると、トーメンを退職した翌日の7月18日に「高橋信次です」と高橋の霊がひょっこり降りてきたことになっている。

 大川は『高橋信次霊言集』の まえがきで、次のように書いている。

「1986年7月、私が神理伝道のために勤務していた総合商社を退職するや否や、高橋信次氏からの、ご自身の現在の考えを世に問いたいという強烈な願いが一条の光となって私の胸を貫きました。私は同氏の熱意に打たれて、ついにこの書を世に問う決断を致しました」

 しかしこうして見てくると、中原の影響とまでは言わないが、彼女との出会いをきっかけとして『高橋信次霊言集』が著わされたと結論するしかない。しかも中原を前にしてテープに吹き込まれたものとなれば、この霊言集の産みの親はまさしく中原幸枝なのである。
 
 


『虚業教団』13

虚業教団13

《底の浅さを思い知らされたGLAとの接触》

 その後もGLAからは何度も抗議文が送られてきた。内容証明も二度ほど来ている。

しかし、このときの大川はフライデー事件のときと違い悠然としていた。

「放っておけ。返答する義務はないのだから」と取り合おうとしなかった。

 GLAの幹部がついに中原の自宅まで訪ねてきた。事務所ではなく、中原の自宅へ行ったのはどういうわけだろう。大川の「高橋信次」は元GLA信者である中原の影響によるものと見なしたからなのか。とすれば、彼らは私たちが当時、見落としていたものを、敏感に察知していたことになる。

この訪問は、たまたま中原が留守だったために空振りに終わった。しかし、その報せがもたらされると〈幸福の科学〉本部にはたちまち緊張が走った。ついに衝突の時がきたか!と、誰もが顔を強張らせた。

 あのときの大川の言い分には一理あったと思う。

「言論は自由。判定は読者がするのだから」
「主宰の佳子先生が来たなら私も会う。しかしナンバー2や3なら、会う必要はない。こちらもそうするまでだ」

霊言が言論と呼べるかどうかは疑問だが、そのホンモノ・ニセモノの判断は、読者にこそ任せるべきだというのは正論だろう。さすが東大法学部と心の中で拍手を送った。

また、大川が相手教団のナンバー2や3と会談するというのは、GLAの下に〈幸福の科学〉を位置づけることになる。つまらないことと言えば、確かにつまらない。しかし教団という存在そのものがすでに、自分のほうが正しいのだ、エライのだと言いつづけなければならない宿命を持っているのである。

 結局、何らかの形でGLAと接触しなければなるまいという結論に達した。『谷口雅春霊言集』もあるから、同じトラブルが生長の家とも起こる可能性があった。日蓮を祖とする日蓮宗、創価学会、空海の真言宗、親鸞の浄土真宗……可能性は至るところにあった。もっとも、金持ちケンカせずとでも言うのか、ほとんどの場合は相手にもされなかったのであるが。

 「総務局の渉外担当を窓口にしよう。関谷さん、ひとつ やってみてくれ」というので、総務局長だった私のところへお鉢がまわってきた。

大川をはじめ人生経験の乏しい人間がほとんどだったから、まがりなりにも ひとつの企業の社長として20年の間 酸いも甘いも味わってきた私が、問題処理係になることが多かった。

だが、このときばかりはハタと困ってしまった。基本的には、私も主宰と同じように考えてはいる。しかし、高橋信次先生のことも心から尊敬している。声を荒らげて批判しあうようなことは絶対にしたくない。なんとか平和に、静かに話し合いたいというのが本心だった。

(どちらも、素晴らしい神理を打ち立てようとしているのだ。話し合いによって、お互いに力を合わせ、ひとつになって進んでいきたい。それこそが天上界にいらっしゃる信次先生の願いであるに違いない。同じ神理を樹立するのだから、他と自を分け隔てるようなことを信次先生がされるはずがない)

だが、こんな理想論は、いとも簡単に押し流されてしまった。

 88年の10月〈幸福の科学〉の代表として、高橋信次の実弟にあたる高橋興和と会うことになった。新宿のホテル・サンルートで、27日の2時と日時も決まった。

はじめて見る信次先生の弟さんは、予想していた通り温厚な紳士だった。

「私は実の弟です。兄の性格は百も承知しています」と彼は念を押した。

「ほんとうに兄の霊が出てきたなら、すぐにでも飛んでいって話をしたいと思います。でもねェ、関谷さん。違うんですよ。巧妙に似せてはありますが、兄じゃないんです。私も残念なのですが」

とても真摯な話し方をされた。肉親だからこそ言える実感がともなっていた。私としては、抽象的な反論をするしかなかった。

「それは、あなたの主観ではありませんか。ホンモノかどうかは、読者が決めるものだと思います。イエス様の本だって、いっぱい出ている。信次先生の本がたくさん世に出て教えが広まることは、喜ばしいことじゃありませんか」

「ほんとうの神理を樹立してくれるなら、ありがたいと思います。でも、大川さんが書く本の内容は、絶対に兄のものではありません。あのようなレベルで次々に本を出されては困るんです」

言うまでもなく私は、大川の霊言を信じていた。かすかな疑いを抱きながら、それだけ余計必至になって信じようとしていた。

「内容に関して、違いを証明できるんですか」

「二つはハッキリしています。関谷さんも気づきませんか。一つは〔愛の波動が伝わってこない〕ということ。愛を説く言葉は上手に並んでいるけれど、暖かみが伝わってきません。ハートではなく頭で理解させ、うなずかせる感じです。
二つ目は〔冗談の言い方の違い〕です。大川さんの冗談には品性がありません。兄はあんな下品な言い方のできない人でした」

こう言われてしまうと、なお反論することができなかった。感じや、身近な人しかわからない品性の問題を持ち出されては、マトモな議論にはならない。それだけに、弟さんの言葉にはウムを言わせぬ説得力があった。

こちらとしては、こんなふうに逃げるしかないだろう。

「大川先生にも深遠な意図があると思います」

疑いが起こるたびに自分に言い聞かせていたのと、同じ言葉が思わず出てきた。

「少し長い目で見守ってください。きっと信次先生のみこころが形となって表現されていくと私は信じています」これはもう、霊言はホンモノじゃありませんと言っているに等しい。しかし追い詰められていた私は、そんなことさえ気づかなかった。これでは弟さんを説得できるはずもないのである。

「このままでは兄の悟りは、この程度の浅いものとして広まってしまうんです。『新幸福論』や『愛の讃歌』はひどいものです。あれでは猥褻書以下です。何が神理ですか。一人ひとりに対して、兄はもっと真剣な愛を持っていました。そこのところを正しく伝えなくてはならないんです」

この猥褻さについては、私も違和感を持って読んだ一人だった。

たとえば『高橋信次の愛の讃歌』にはこういう一節がある。
※この出典は関谷氏の誤りで、正しくは『日蓮聖人霊示集』(土屋書店)の記述

〔ライオンが、この女性の上にのしかかって、この女性を犯しておるようであります。……かわいそうにこの女性は、350年の間、こうしたライオンを中心とした人間に犯され続けたようであります〕

霊言をまるで信じない心理学者なら、著者の潜在的欲望の現れと見なすだろう。確かに、高橋信次の口から語られたとは信じがたい。

もうひとつ『新幸福論』の一節を、少し長くなるが引用しよう。人間は多かれ少なかれ いろんな願望を心に隠し持っているのだから、そのこと自体はとやかくいうつもりはない。

こういうものを高橋信次の霊言だと主張しなければならない、私の苦渋を察していただければいいのである。

〔それはね、男ってやっぱり自尊心の動物なんだ。男から自尊心をとったら何も残らないんだよ。「あなたって駄目ね」とかね。「あなたね、全国平均は、だいたいあれよ、15分よ」とかね、「1時間は、やはり夜の勤めがあるのよ」とかね。「平均はいくらぐらい、どうのこうの」とかね。こういう男性というのはね、平均もってこられて比較されると、非常にいやなんだよ。「他の人が1時間でしたって俺が3分で何が悪い」って「1分で何が悪い」って「あなた、すごく早いのよ」ってこう言われるけど「あなた一分よ」って「なーに1分で何が悪い」って「だんだん時間を短縮する傾向にあるじゃないか」って「新幹線だって速く走りやいいし、オーブンだって短い方がいいし、電気釜だって早く炊けるのがいいに決まっとるじゃないか、早くって何が悪い」って「だけど隣りの奥さんに聞けば、だいたい二時間よ、一時間よ」とかね、いっぱい言われますね。「あなたって肉体的欠陥があるんじゃないの」って、 こういろいろあるけれども、こういうことは決して言っちゃいけない。

特に男性というのは自尊心の動物だっていうことを忘れちゃいけないね。だから平均だとかね、隣の旦那さんとかね、うちの親戚の人とかそんなの出してきて、比較しちゃいけない。女性はしがちだよ。全国統計なんか知らないくせに、ちょっと聞いたことしゃべるからね。

男性の肉体的欠陥、絶対言ってはいけない。「体形が悪い」とかね。「あなたは、夜のがへタ」だとかね、絶対これを言わない。これ大事です。なぜかって、男の自尊心を傷つける。そうすると外へ出てもうまくいかない。家の中でも自信がなくなる。駄目になってきますね。このところ特に気を付けてください。胸に手をあてれば、心当たりある奥さんは九割以上いるはずです。言われたことがあるっていう旦那さんは十割ぐらい居ます。

だから僕もこれだけ力を入れている意味を、みなさん考えてくださいね。なぜ高橋信次がそれだけ言うか。まあ考えてくださいよ。〕

 話し合いは二時間ほどつづいたと思う。私の勉強不足に、弟さんは物足りなさを感じているようだった。勉強不足とは、宗教界全般についての知識のなさである。そうなのだ。

〈幸福の科学〉の多くの会員と同じように、私も宗教に対してはほとんど何も知らず大川の本と出会った。そして、入会後に読むものといえば、ほとんどが大川の著作である。それもそのはずで「おれの本以外に本が読めるなら読んでみろ」とでも言わんばかりに、立て続けに本が出るのである。

 会に帰って会談の報告をしたが、ありのままを言うことはできなかった。大川のためにも自分のためにも、適当にお茶を濁すしかない。あらましを聞いた大川は「もう煩くは言ってこないだろう」と安心した様子だった。
 
 


『虚業教団』14

虚業教団14

《GLAに対する大川主宰の異常な憎しみ》

 いまGLA事件のことを思い出すと、GLAと高橋佳子に対する大川隆法の異常とも言える憎しみに気づく。〔異常とも言える憎しみ〕などと言うと、会員の中には、主宰先生を故意に貶めるための意地悪な表現と受け止める人がいるかもしれない。そういう人は、たぶん主宰の本を熟読吟味していない会員だろう。熱心な読者なら、そのことに気づいているはずである。

たとえば『高橋信次霊言集』のまえがきにこんなくだりがある。

〔高橋信次氏のかつてのお弟子さんの多くが、現在、間違った方向へとそれて行っていることに対し、同氏は、なんとか彼らを、彼らが生きているうちに救ってやりたいと、強い情熱の程を吐露されたのであります〕

また大天使ミカエルと言われていた高橋佳子に対しては〔高橋佳子はミカエルではありませんし、ましてや私の本体でも分身でもありません〕

ここにある〔私〕というのは『高橋信次の新復活』の中の高橋信次、つまり佳子の父親の霊である。父親が娘はミカエルではないというのだから、これ以上確かなことはない。じつに巧妙な攻撃法だった。

高橋興和との話し合いの後、会へ戻ると、大川は真顔でこんなことを言った。

「GLAは今や悪霊の集団と化している。そこの大幹部と会ってきたのだ。当然、関谷さんも悪霊の影響を受けている」

「ほんとですか」私は思わず聞き返した。

「ほんとだとも。もう帰ってきたのを見て、すぐわかった」

私には、その言葉が不思議でならなかった。弟さんとの会談では、私の旗色は悪かったが、落ちついた礼節ある紳士との話し合いは、私の気持ちを充実させていた。

(あの話し合いは、両者が力を合わせて神理を中心に団結していくための努力だったのではないか。私の気持ちはこんなに満たされているのに、悪霊に憑かれるなんていうことがあるのだろうか)

もちろん、そんな思いは口にしなかった。

 12月7日になって弟さんから電話があり「もう一度ぜひ会いたい。今日しか時間がないが会えないだろうか」ということだった。たまたま大川が留守にしていたので、職員に断って会いに出かけた。

交渉は前回の域を一歩も出るものではなかった。会話は静かだったが、どちらも主張を譲らず、最後には苛立ちさえ感じてきた。弟さんのほうが、おそらく数段冷静だったろう。

もし、ほんとうの神理に立っていたら、少しも苛立つことなどなかったのである。神理ではなく、大川に対して忠実であろうとしていたから私はイライラしていた。

事務所に帰ってくると、ちょうど大川も戻ってきたところだった。
「関谷さん、今日は何かいいことでもあったんですか。なんだか、とてもスッキリした感じですね」

返事のしようがなかった。高橋興和に会ったとも言い出せず、笑ってごまかした。

それ以降、私の在籍中はGLAから何の音沙汰もなかった。私のような大川信奉者が窓口ではケンカにもならない、と思ったのだろうか。あるいは、私を通して〈幸福の科学〉が学習のみであるという底の浅さを知り、どちらがホンモノかはわかる人にはわかると、自信を持ったのかもしれない。

しかし大川のほうは高橋信次の口を借りて、執拗にGLAを攻撃しつづけた。

GLAの会員のあいだでは、生前から高橋は〔仏陀の生まれ変わり〕と信じられていた。

一方、大川がはじめて自分を〔仏陀の生まれ変わり〕であると公言したのは、89年に出版された『仏陀再誕』によってである。

しかし〈幸福の科学〉発足の当初から、ごく内輪では自分は仏陀の生まれ変わりだと打ち明けていた。主宰先生が仏陀の転生であるということは〈幸福の科学〉では公然の秘密だった。すなわち二人の仏陀が、同時に存在したことになる。

この点を大川は、どのように考えていたのだろうか。

 87年5月に出版された『高橋信次の新復活』で、彼は高橋の霊にこうしゃべらせるという奇策に出た。

「私自身が、自分を釈迦だと思っていた時もありました」

つまり、高橋の霊の口から「自分は仏陀の再誕ではなかった」と言わせたのである。

〈幸福の科学〉会員にとっては、高橋本人がそう語ったのと同じだった。

私が会にいた頃、仲間うちでは「高橋佳子はノイローゼだ」「彼女は じきに死ぬぞ」「もうすぐ死ぬから見ていなさい」と、大川はしつこく繰り返していた。こうした不自然なほど大きな憎悪が、いったい何に由来するのか正確なところはわからない。しかし私は、彼女に向けられた呪いの言葉の端々から、あの憎しみは高橋佳子に対する大川のあこがれの裏返し、コンプレックスではないかと推測している。だが、これはあくまでも推測にすぎない。


『虚業教団』15

虚業教団15
大事件となった神託結婚
愛なき断罪と追放の実態


《大事件となったある「神託結婚」の失敗》

 大川主宰にひとつの神示が下った。88年12月のその神示は、それから2カ月のあいだ会を揺るがし、初期〈幸福の科学〉最大の事件に発展していった。

それは会随一の求道者・阿南浩行に佐藤真知子と結婚せよ!と命じる神示だった。

前にお話ししたように、阿南は一部上場企業の職を捨てて会に参加してきた、筋金入りの求道者である。大川にも負けないほど頭脳明晰で、最近の若者には珍しい落ち着きぶりでも際立っていた。

情熱を燃やして学習に取り組む姿に〔さすがアーナンダの生まれ変わりだ〕と感心したものである。そんな彼に思いを寄せる女性も少なくなかった。

 私は彼の鋭い洞察力を密かに恐れていた。修行の足りない私の心の実態が、阿南には手にとるように読めるのではないかと怖かったのである。そういう私とはまた違った意味で、大川隆法も彼を恐れているように見えた。

たとえば学習会の席で鋭い質問をぶつけるのはいつも阿南だった。会に入ってから勉強したのか以前から学んでいたのか、該博な知識から発せられる見事な質問に、私たちは しばしば舌を巻いた。

大川が阿南を恐れていたとすれば、その知識だったろう。幹部だけの学習会でも、阿南の質問に答えられない場面が何度かあった。むろん、わからないなどとは口が裂けても言わない。正面から答えようとせず、冗談に紛らしてしまう。大川のいつものやり方だった。

さすがに言葉にする者はいなかったが、誰もが〔もしかしたら阿南のほうが、先生よりもよく知っているんじゃないか〕と感じていたと思う。

 そんな阿南に真知子と結婚せよという神示が下ったのである。

いくら神託結婚と言っても、奇想天外な組み合わせだった。今までの神託結婚は、中原と私をはじめ奇想天外というのではなかった。二人の当事者には、ある程度のつながりがあったからである。

しかし阿南と真知子の場合は、つながりはないに等しい。互いに口をきいたことすらなかったのだ。

マジメで学究肌の阿南と、まわりに子分を集めてキャーキャー騒いでいる真知子。この組み合わせに、彼らを知るすべての会員が仰天した。誰の目にも不釣り合いだった。個性とか性格といった単純なことではなく、住む世界がまるで違うという感じがした。

今にして私はこの不自然さに、阿南を煙たく思う大川と、真知子を自分の配下に置こうとする大川夫人の意図を感じる。彼らの最も身近にいた人間としてのカンである。

 しかしこの神託が大きな事件に発展するまで、私たちはみんな〔神様もイキなことをする。我々の想像もつかないところで、チャンと組み合わせができているんだ。赤い糸というのは、こういうことかな〕などと、のんきなことを言い合っていたのである。

阿南が どんなに苦しんでいるかも知らずに……

 大川は阿南を呼んで、ちょっと話があると言ったらしい。後日、阿南本人から聞いたところをそのまま書いてみよう。

──指定の場所へ行ってみると、大川夫妻と真知子が待っていた。席についた阿南の前に、大川がカレンダーを広げた。

「この日です」と大川はカレンダーを指した。「私が自転車を走らせて、阿南さんのために、この日に式場の予約をしてきました」

阿南が混乱していると、おもむろにこう言ったのである。

「ここにいる佐藤真知子さんと結婚式を挙げていただきます」

あっけにとられて、阿南はしばらく返事ができなかった。中原と私のケースで一度成功していたから、大川には勝算があったのだろう。自信たっぷりだったという。あのときの中原もそうだったが、真知子のほうはすでに言い含められていた。

しかし私とは違い、阿南は簡単には言いなりになる男ではなかった。難色を示すと、大川は怒りを爆発させた。恭子、真知子の前で、彼を徹底的に侮辱したという。

「あなたは何もわかっていないんだ。だいたいにおいて子どもすぎる。社会的にもっと飛躍しないと、神理を学んでも何にもならない!」

この怒りはその後しばらくつづき、阿南のいない場所でもときどき噴き上げてきた。私がクルマで送迎するときも、後ろのシートでは阿南に対する攻撃が延々とつづいた。

 大川という人は、そこにいない人の悪口を言うのを好むタイプの人間である。会議の席や、昼食のとき、あるいはクルマの中で、どれほど幹部連中の悪口を聞かされたかわからない。能力のあるなしから始まり、ときには人間的な弱点まであげつらった。

その性癖が、阿南事件ではますますエスカレートした。聞いている私のはうが憂鬱になるほどコキおろしてみせた。


阿南の悩みは深刻だった

数日後の朝、私の机の上に一通の封書が置かれていた。阿南からの相談の手紙だった。

そこには「結婚のことで悩んでいる」とあった。じつくり考えてみたけれど、真知子とはどうしても合いそうにない。しかし神のお告げと信じきっている彼女には、自分の考えが伝わらない。どうしたらいいだろうか、ということだった。

あの頃の会は「あの人にも神託があったんだって。羨ましいわね」「私も早く神託がほしいわ」という感じの雰囲気が支配的だった。それでうかつにも、私たちは阿南がそんなに苦しんでいるとは気づかなかったのである。

 さっそく真知子と会うことにした。西荻窪の駅ビルの六階にある中華料理店へ、彼女を昼食に誘った。

「真知子さんは阿南さんが好きなの?」

「とても素晴らしい方と心から尊敬申し上げています」

まず彼女の気持ちを聞いてみるつもりだった。しかし会話したこともない阿南に対して、彼女も特別な感情は持てないでいるらしい。

「私と中原さんの神託があったときはビックリした。でも、ずっと前から仲良しだったからね。けれど、あなたたちはどうかな。私には、二人には接点みたいなものがないように見えます。もしお互いに引き合うものがなかったら、ムリに結婚しなくてもいいと思いますよ」

「阿南さんを尊敬し、お慕いしています。それに先生のお言葉ですから、きっと幸せになれると信じておりますわ」

彼女はキッパリと言い切った。

好き嫌いより信仰のほうが大切だと言いたげな、これも一途な真知子であった。

阿南も、ある程度の覚悟を固めたのだろうか。暮れも押し詰まった頃、真知子の実家へ電話を入れている。こんな思いがけないことになったが、まずは自分を知っていただきたい、ということのようだった。

真知子の家族は一家をあげて〈幸福の科学〉の会員だったから、異議のあろうはずもなかった。


《愛なき断罪と追放の実態》

 事態は進捗しないまま、あの忘年会の夜がやってきた。

50人ほどの職員を研修場の2階に集め、ビールやつまみをならべて、一年の労をねぎらうささやかな宴会が開かれた。その席で総務局長の私から、阿南と真知子の神託結婚を発表したが、発表するまでもなくもう全員が知っていた。

底抜けの明るさで人気のあった真知子が結婚することに、ガッカリしている男性も少なくなかった。彼女は嬉しそうに見えた。阿南のほうは、彼女から離れた席で固い表情を崩さずに座っていた。

神託結婚の報告でワッと盛りあがって始まった忘年会だったが、じきに重苦しい雰囲気に変わっていった。真知子が声をあげて泣きだしたのである。

トラブルが生じたときの常で、私が何か言いだすしかなかった。

「おい、みんな。今こそ神理を打ち建てる大事なときだ。我々の人生には、これからも いろんなことがあるだろう。みんな〈光の天使〉なんだ。大きな心で、花も嵐も踏み越えて生きていこうじゃないか」

最後のほうは、自分自身に言い聞かせているかのような気持ちになった。

 正月を迎えるために阿南は関西の実家へ帰っていった。真知子のことも両親に伝えなければならない。しかし神託結婚の話をすると、狂人あつかいされたという。

そう、それが常識ある人間なのだ。〈幸福の科学〉という狭い世界の中で、その常識を私たちが忘れかけていたということなのだ。

〈幸福の科学〉は〔偉大なる常識人〕を理念のひとつとして掲げている。

しかし〔偉大なる常識人〕をいくら説いても、それで常識人になれるわけではない。健全な常識は、職場や家庭で懸命に自分のつとめを果たし、人と人が互いを思いやり、支え合うような、ありふれた生活の中に存在するのである。

ついでに言い添えておくと〔偉大なる常識人〕の概念は、大川に提出したレポートの中で私がはじめて提唱したものである。それが、いつの間にか会のモットーとして定着してしまった。

 明けて1989年1月。年末年始の10日間の休暇を、家族という常識世界に触れてすごした阿南は、心を固めて東京へ戻ってきたようだ。彼は大川に、この話はなかったことにしてほしいと訴えた。

大川のワンマン体制下では、その意向に逆らえば、会から追放されても文句は言えなかった。よほど勇気が要ったに違いない。なにしろ仏陀の指示を拒むのである。

阿南浩行は自分の心に正直にしたがった。たとえ全知全能の神の命令でも、自分がおかしいと感じたら、やはりおかしいのではないか。彼は自らの行動で、そのことを私たちに問いかけたのである。けれど私たちはまだ自分の〔浅はかな考え〕よりも、大川の霊言を信じていた。

「神は自分の心の中にある」と高橋信次は繰り返し説いた。そういう心の中の神を、真っ直ぐに見つめることのできた人間から、順番に会を去っていった。

「明日から出社におよばずだ!もう出てくる必要はない!」

大川の憤慨は、私たちも はじめて見るほど激しいものだった。

「佐藤家を訪問したというのは、すでに承諾したと同じではないか。相手に正式に結婚の申込みをしたということだ。今さら断れない!」

六大神通力を持つはずの主宰先生が、怒りのためにその能力に曇りが生じたのか、すでに阿南は真知子の実家へ挨拶にいったものと勝手に思い込んでいた。

「神託結婚を承諾できないのは、高級霊からの霊言が信じられないということだ。これだけの本(当時は60冊)を認めないと言っているんだ。信仰心がなってない!」

「自惚れている。大したこともできないくせに!」

局長会議が頻繁に開かれた。そのたびに、私たちは、主宰先生の〔不調和な言魂の響き〕を耳にしなければならなかった。


『虚業教団』16

虚業教団16
愛なき断罪と追放(つづき)
悲しくそれぞれの道へ別れて
建て前だけの与える愛


 大川から各局長あてに〔綱紀粛正〕なる通達が出されたのは、1月7日のことである。

事務局長/総務局長/指導局長/推進局長

1/7/89 大川

〈綱紀粛正〉

1、阿南氏
当会幹部としての発言、行動が社会的常識に欠け、三宝帰依の精神がない。また自己変革の意思がない。

*来週より二週間、自宅での反省を命ずる。

*指導局課長解任。

*青年部講師、当分の間資格停止。

*二週間の反省期間後、多少本来の姿になっておれば、事務局付で勤務、又は大阪への配転を考える。反省の色がないようなら、退職勧告をする。

(中略)

〈全体的展望〉
1、当会の性格からいって師と弟子の信頼関係は絶対必要。高級霊への信仰も必要。

神を裁く性格の人は居られない。〔正しき心の探究〕の基準の運用による破門も検討の必要がある。

2、今回は青年部講師再考のよい機会。人生経験未熟で大人になりきっておらず、社会常識を疑われる講師の登用は避け、〔研究員〕あるいは〔研究生〕とする方向へ切り替え必要。

通達は、大川が自らワープロ打ちしたものだった。

こうした事件の、いったいどこに愛があるだろうか。

神様の気まぐれとも思える神示をぶつけられ、悩まない人間がいるだろうか。本人には、どうしても理解できない問題だから悩む。そういう人間の心を、主宰は一片の通達によって残酷に切り捨てたのである。

師と弟子の信頼関係を破壊しているのは、はたしてどちらだったか。人生経験未熟で大人になりきっていないのは、大川自身ではなかったろうか。

この事件があって、中原幸枝は出勤を拒否するようになっていった。


《悲しくそれぞれの道へ別れて》

 道を求める真剣さにおいて、中原幸枝と阿南浩行は初期〈幸福の科学〉の双壁だったと言える。阿南事件が中原にもたらした衝撃は非常に大きかった。二人が仲よしだったからだけではない。おそらく中原の心の中で、大川に対する何かが崩れ去ってしまったのだ。

疑い、不信が一気に噴き出してきた感じだった。一分の疑念を飼い馴らしながら活動していた私のような人間とは違い、中原は切ないぐらいに純粋だった。主宰先生のために死ねと言われたら、死にかねないほど一途に打ち込んでいた。

その主宰先生には愛のかけらもない。あれほど愛を説きながら、どこにも愛の実践がない。神理というのは、口先だけのおしゃべりだったのか……。

ひとつ屋根の下で彼女を見ていた私は、その絶望の深さを言いあらわす言葉を持たない。

「いや何かある。後になって〔ああ、あれはこういうことだったのか〕と私たちが気づくような、何か深いお考えがあるに違いない。それを信じてみよう」

ずっと大川信仰の浅い私が、そんなふうに彼女を励まさなければならなかった。

 設立準備の頃から超人的なパワーで働いてきた中原の、心と体を支えていたものがプツリと切れたようだった。それまで溜まっていた疲労がドッと襲ってきた。彼女は体の不調を口実に事務所へはあまり顔を見せなくなった。

大川のほうも、中原に異変を感じとったのだろう。会の顧問か参与に昇格させるからと、慌てて言ってきた。地位を与えたり解いたりすることで、人の心までコントロールできると思い込んでいるのが大川主宰だった。どういう形で断ったかは知らないが、そんなものに魅力を感じる彼女ではなかった。

2月頃からは、もうほとんど出て来なかったのではないだろうか。

そのまま中原は会を去った。こうして大川は最大の協力者、会の土台を築いた第一の功労者を失った。同時に最も真剣に神理を求めた、一番純粋な〈光の天使〉を見失ったのである。

そして私たち「夫婦」は、話し合って仲良く離婚した。

まるでブレーキが利かなくなったように〈幸福の科学〉はこの年から露骨な拡張路線をひた走っていくことになる。

中原にくらべると、私はずっとしぶとかった。

 阿南の処分にどうしても納得できなかった私は大川に直訴した。

「高い次元から見ている主宰には、いろんなことがおわかりでしょう」

高次元にいる自分の考えなどお前たちにわかるはずがない、というのが大川のログセだった。だから言う通りにせよ、というのが主宰の論法なのだが、そこを逆手にとるしかないと私は考えた。正攻法で攻めても、いつものように「霊が言ってるんだ」で煙にまかれてしまうのは目に見えている。

「阿南を呼びつけて、低次元の人間にもわかるように、どうか諭してやってください。先生にしかわからないことが、いっぱいあるんですから」

大川は不機嫌にむっつりと押し黙っていた。せっかくの戦法も、これでは役立たない。

その後も、この話題になると大川は急に不機嫌になり、胸襟を開こうとはしなかった。

 2月2日に事務局から〔阿南元講師に対する当会の基本的考え方〕という配付文書の原案がまわってきた。

見ると次のような五つの項目が挙げられていた。

1、基本的視点
2、講師像の認識不足
3、問題認識の欠如
4、高級神霊に関する批判的態度
5、社会的常識の欠如

それぞれの欄に、阿南に対する批判がビッシリと書き込まれていた。

(もう阿南が去っていくのはしかたないな)

もはや私には何もできない。

(いろんな問題があったとしても、このブッタサンガー〔布教団体〕に代わるものはないのだ。一時的に阿南が離れるのだと考えればいい。それも彼にとって何かの意義があるだろう。阿南には悪いが、そう信じよう)

しかし、これほどの苦しみを背負って去っていく者に、こんな悪口だけを並べてハイさよなら、というのではあまりではないか。それだけは絶対に許してはならない。そう考えた私は、次のような文章を最後に追加させた。

──以上の如く、当会の発展途上の現機構には即さない為に本部を退職しましたが、法を学ぶ熱意、その他優れた点も多く持っており、本部としては暖かく見守っております。

配付文書では、わずか三行。それを加えさせるのが私にできる精一杯のことだった。

せっかく神示をいただきながら従おうとしない、このアーナンダに職員全体が批判の目を向けていたのである。

 去っていく阿南のために、中原と私、そして彼を兄弟子として慕っていた伊藤博樹で別れのテーブルを囲むことにした。私は残務があり欠席したが、食卓に料理が並ぶ前に、昨日まで尊敬してやまなかった兄弟子を、伊藤が口汚く罵り始めたという。

中原もただあっけにとられた。

「目ン玉をくり抜いてやろうか」

そんな暴言まで飛び出した。思いがけない成り行きに、阿南はジッと耐えるふうだった。

しみじみと語り合いながら別れを惜しみたいというささやかな願いはかなえられなかった。

料理が運ばれてきたが、誰も手をつけずに外へ出たのだった。

私は、この話を中原と阿南に後で聞いた。悲しかった。無性に悲しかった。私たちは一生懸命になって、いったい何を造りあげてしまったのだろう。ともに同じ道を歩いてきた。

同じ理想を目指し、ともに学んできた。その仲間が、なぜこんな憎しみを抱き合うようになるのか。

しかし歴史には、そんな例がたくさんある。愛を求め、平和を求め、ユートピアを求めた者同志が、何を師とするかによって最も激しく憎み合ってきたのである。

街の灯は、それぞれの心の中の苦しみなど知らぬ顔で、コートにくるまった三つの体を冷たく照らしていたに違いない。同じ道をきた三人が、いま別々の道へ歩み去ろうとしている。伊藤も阿南も、中原も。そして私もまたもうひとつの道を歩まねばならない。


《建前だけの「与える愛」》

 阿南は去った。事件は会を大きく揺るがし、会員を動揺させた。なかでも古い会員が受けたショックは小さなものではなかった。2年後のフライデー事件とともに、良識ある会員の心を〈幸福の科学〉から遠ざけることになったできごとだった。

しかし会は、何事もなかったかのように活動をつづけた。

この年の会の課題のひとつは、本部講師の知的レベルのアップだった。私を含めて六人いた本部講師が、大川隆法じきじきの特訓を受けることになった。毎週木曜日に研修ホールでおこなっているセミナーの後で、本部講師は質問を提出することというお達しが出ていた。

質問の内容で講師としての力量が問われる。講師同士がライバル意識を燃やし、今まで以上に真剣に講義に耳を傾けた。翌朝一番で、大川に質問状を提出するのである。

一日おいて、大川からの答えがワープロ打ちされて返される。六人全員の質疑応答集として戻ってくることになっていた。こういう面では、主宰先生は労を惜しまない努力家だった。このQ&Aは順調に進み、何週間かするとかなりのファイルがたまった。

 2月のある週に『イエス・キリストの霊言集』が講義で取りあげられた。霊言集の解説だったが、心に染みる愛の言葉が大川の口からは次々と気持ちよく語られた。

その夜、私は一行も書き出せないまま、レポート用紙の前に座りつづけた。大きな疑問があった。阿南事件の残り火が心にまだくすぶっていた私は、大川の素晴らしい愛の講義のあいだも、その疑問をどうしても消せずにいた。それを押し隠したまま、あたりさわりのない質問をすることはできない。

(この質問状で、阿南の処分に対する疑問を率直に投げかけてみよう)

ようやく腹をくくったときは、すでに夜が明けかかっていた。

しかしそれは、大川に対する重大な挑戦を意味していた。ハッキリと反旗をひるがえしたことになる。これまで最も身近な弟子として、常に私は主宰先生の傍らにいた。会員なら羨まない人はいない、垂涎の的とも言えるポジション。このまま黙ってついていけば、その座は安泰である。損得だけを考えたら、百人が百人ともおとなしくしているだろう。

けれど、私の正義感が、求道心が、もはやそれを許さなかった。


『虚業教団』17

虚業教団17
建て前だけの与える愛(つづき)
紀尾井町ビル


けれど私の正義感が、求道心が、もはやそれを許さなかった。

(世俗的な望みを捨ててきたはずじゃないか。あれだけの犠牲を払い選びとった道を行くのに、いまさら何を恐れるんだ。即刻クビというなら、それもいい。これをきっかけに大川先生に、ホンモノの大如来として、大きな愛の輝きを持っていただくことのほうが大切ではないのか)

一方には不安もあった。もしかしたら、今度のことは私には理解できない愛の表現なのではないか。冷血を装って私たちをハラハラさせてから、すぐ後でウーンと唸らせるようなドンデン返しが用意されていたら、どうしよう……。

(大恥をかくことになるが、こんな嬉しい恥はない。大いに笑われてやろう)

私は〈幸福の科学〉の愛の神髄を確かめるべく、思い切って筆を握った。

〔質問〕迷える小羊の扱いについて

イエス様の愛の表現の仕方としては、99匹の羊を待たしても1匹の迷える小羊を探し出して連れて行くというふうに聞いております。私の考えでは、今回、神託結婚を拒否したAさんが迷える小羊に見えるので、先生には一対一でよく諭して欲しいとお願いしたのですが実現しませんでした。

会が急速に伸びなければならない時期という点はわかりますが、先生とイエス様の「愛の表現の違い」をわかりやすくご指導ください。

〔答え〕
問題の本質が十分に見えていないようです。総務の仕事は火消し役です。火種に油を注いではなりません。知恵なき愛は人を我が儘にさせ、増長させ、そしてついに堕落させます。A氏の問題でなく、自分の問題として考えてください。過去自分の意図に反して人が行動した際に、それがなぜであるか考えてみてください。

結婚の現象は、幸福の科学の指導霊団が今回の仕事の実証として計画しているものです。

そしてこの現象を妨害して、霊言の信憑性をぐらつかせようとしているルシファーたちの計画があります。幹部たるもの職員たるもの、こちらに加担してはならないのは当然のことです。指導霊団の怒りの真意を看破してください。

それともう一つは、こうした団体に集う人は、自分の日常生活的な問題や、身体的な問題まで、精神的なもの、霊的なものにスリかえる傾向があります。

形而上と形而下と峻別する必要があります。          ──以上──


??──この人は何を語っているのだろう。これでは私の質問に何も答えていないのと同じではないか。おまえたちは何も考えず与えられた仕事だけをしていろ、ということなのか。それではヒットラーやスターリンと少しも違わない。そのうえご丁寧にも「日常生活的な問題や身体的問題を、精神的霊的問題とスリかえるな」と、体の不調を口実に出勤拒否している中原にまで牽制球を投げている。

どこにも愛はなかった。思いやりも優しさも、仲間を護る暖かさも勇気も、何ひとつ見出すことができなかった。

これでも高次元の愛だと言うなら、100パーセント庇理屈である。昨日までの仲間が悩み迷っているのだ。光を求め道を探っているのだ。職を捨てて霊性時代の樹立のために馳せ参じた私たちの同志が、いま迷っているのである。こんなときに愛の手を差しのべないで、いつ愛をおこなうのか。自分の言うことを聞かないからとサッサと切り捨ててしまう。そんな釈迦如来がいるだろうか?

〔与える愛〕は建前だけ、理論として口で唱えるだけだったのか。

そんな宗教団体なら、今までにも腐るほどたくさんあった。理論だけ、おしゃべりだけなんてクソにもならん。私たちが夢見たものは、そんなものではなかったはずだ。

怒りを通り越して、落胆した。必死に支えてきた心の奥の何かが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちるのが聞こえてくるようだった。

(やっぱり、本者のお釈迦さまではなかったのか……)

寒かった
心が寒くてならなかった



第5章 さらば幸福の科学よ

《紀尾井町ビルヘの入居契約が最後の奉公》

 阿南事件のあった88年から89年にかけての冬は、寒く長いものに思われた。

その年の1月、昭和天皇の崩御があった。2月には政界、財界、官界を巻き込んだリクルート疑惑で、リクルート元会長が逮捕されている。また新聞やテレビのニュースでは埼玉県で頻発していた幼女誘拐殺人のことが連日報じられていた。

バブル経済の真っ最中だったが、暗いニュースがつづいた。物質的に豊かにはなったが、人の心はますます荒廃の度を深めていくようだった。その荒廃から立ち上がるべく、新しい価値を求めた私たちの運動。そこに私はもう希望を見出せなくなっていた。

心が重く沈む。春はなかなか来ないように思われた。

 しかしバブルが膨らみつづけていたように〈幸福の科学〉も着実に大きくなっていった。三度目の拠点となっていた西荻窪の地下の事務所もすでに手狭になっている。さて次の事務所はどうしよう、という話がチラホラ出ていた。またまた私の出番である。

駅前の七階建てビルが空くと聞いて当たってみたが、宗教団体はお断りとアッサリ振られてしまった。

西荻窪にしっかり根をおろし、ここを神理伝道の拠点にするというのが〈幸福の科学〉の最初の決意だった。

「場所など問題ではない。素晴らしい教えさえ説きさえすれば、地球の裏側からでもここへ尋ねてくるようになる。だから、この西荻窪が聖地なのだ。天理教ができて天理市になったように〈幸福の科学〉がこの町の名前を変える日がきっとくる」

はじめの頃、西荻窪への大川の入れ込みようは大変なものだった。

しかし主宰先生の言うことは、すっかり変わってしまった。

「こんな田舎に何で居なければならないんだ。政治家とのコンタクトも、これからは必要になる。中央へ出たい。高級霊からの通信も、それがいいと言っている」

大川に何か野心があるなら、便利屋程度にしか見られていない私が何を言っても耳を傾けはしないだろう。「高級霊からの通信」という切り札があるかぎり、どんな正論も通じない。高級霊の指示だからと、その野心を達成しようとするだろう。

(どうせなら何でもしてやろうじゃないか)

そんな気持ちになっていた。

 新宿三丁目に手頃な貸しビルがあった。宗教団体を表に出さず、出版社として下交渉すると間もなくOKが得られた。そこを第一の候補として、次にもっと思い切りすごいところを狙ってみた。それが〔紀尾井町ビル〕である。

千代田区紀尾井町に建設が進んでいた地上二六階建てのこのビルは、当時ビジネスマンの話題の中心であり、あこがれの的だった。東京の一等地では、もはや入手不可能な広いフロア、皇居や永田町にも近い地の利。賃貸料も月何千万円という単位である。そこに入居することは、トップ企業の証明であるかのように思われていた。

(ひとつ、あそこを狙ってやろうか)

新宿のビルの下交渉で親しくなった不動産業者に相談すると、たちまち目を輝かせた。

契約成立となれば、手数料だけで2000万円を越えるのである。しかし金を出せば誰でも入れる、というわけではなかった。権威という付加価値をつけたいビル側(大京)の内容審査は厳しく、やっと名が売れ始めたばかりの宗教団体に簡単に貸してくれるとは思えなかった。

とりあえず本部に相談すると、大川は身を乗り出してきた。ダメで元々ではないか、とりあえず挑戦してみよう。その気になって、大いに私を励ましてくれた。中小企業が、一気に一流企業の仲間入りをするのである。会の礎として献身してきた私にも、それは愉快なことである。

大京の事務所へ行くと態度こそ丁寧だったが、こちらを軽く見ているらしいことは、私にも推察できた。〈幸福の科学〉などという名前は聞いたこともないのだろうから、それもしかたあるまい。この敵をどう攻略してやろうか。私はいつの間にか〔紀尾井町ビル入居〕をゲーム感覚で楽しみ始めていた。

次の折衝のときは、建設中のビルへ案内された。まだ骨組みしかなかったが、鳥カゴのようなエレベータで21階まで昇った。物凄い恐怖と、春とはいえ寒々とした曇り空だったことをよく覚えている。東京を睥睨するような、素晴らしい見晴らしだった。

あんな高みから見おろしたら、人の心や生活はますます見えにくくなるだろう。

今にしてそんなふうに思う。しかしあのときの私は、そんなことを感じるゆとりはなかった。高所恐怖症者のように、自分の高さが怖くてしかたなかった。

事務所に帰った私は、見てきたことをさっそく大川や幹部連中に話した。私自身いくらか興奮していたかもしれない。当初は夢物語でしかなかった。それが次第に大きな期待となって膨らんでいった。

ついに高級霊からの指示があった。

「高級霊から指示が下り、九次元霊全員が新宿ではなく紀尾井町ビルに移れと言っている」

ある朝、そんな神示が大川から披露された。

ご存じない方のために言っておくと、九次元というのは人の霊としては最も進化した人々のいる世界で、仏陀、キリスト、アラー(高橋信次)、モーゼ、孔子、ニュートンなどが九次元霊である。その霊たちがこぞって「紀尾井町ビルに移れ」と言っているという。私にとっては、いよいよ話が面白くなってきた。

例の業者と作戦を練った。まず新宿のビルのほうで内諾をとり、その信用で大京側を落とそうというものだった。

じきに大京から、もう少し具体的に調査したいと言ってきた。

今度は細田局長をともなって大京を訪れた。質問は以前と同じだったが、私にはピンとくるものがあった。私たちは事務所としては最高の場所にある18階を希望してその日の交渉を終えた。

外に出ると細田が言った。

「ウチのスケールでは、ちょっと無理じゃないかね」
「いや、これはOKですよ。間違いない。ただね、18階は貸せないが、3階か4階ならいいと必ず言ってきますよ」

 まだ小寒い陽射しの中を、私たちは西荻窪の小さな事務所へと急いだ。

そこに入居することは、トップ企業の証明であるかのように思われていた。

これが〈幸福の科学〉における私の最後のご奉公になった。しかしそれを今、複雑な気持ちで思い出す。この紀尾井町ビルが、会の拡大路線に火をつけてしまったのではないだろうか。4月になると、高級霊から大川に「伝道の許可」が与えられ、会員獲得へ盛んに檄が飛ぶようになった。


『虚業教団』18

虚業教団18
光の天使から戦士へ
必然だったフライデー


《「光の天使」から「光の戦士」への変質》

 1989年(平成元年)は、学習団体から伝道団体へと〈幸福の科学〉がその性格をハッキリと転換した記念すべき年である。

人材の用い方にも、拡大路線がはっきり現れてきた。

中原や阿南がいなくなり、かわって大川が耳を傾けるようになったのは、営業や組織づくりのベテランの声だった。
○○生命営業本部長の黒木文雄、熊本で不動産業者として成功していた坂本頼男。創価学会で会員集めに活躍した大沢敏夫などが、会を動かし始めていた。

 大沢敏夫の登場についても、私は内心悔恨たるものがある。

 会の発足記念座談会で、大沢が「リュウホウ先生、リュウホウ先生」と発言したことは、すでにお話しした。その後も大沢からは、「リュウホウ先生の下で活動したい」というようなアプローチが何度かあった。しかし申し出は、やんわりと拒絶されている。彼の辣腕に会をかきまわされるのを大川は心配したのである。

会の基礎が固まり、拡大がテーマになって、大川が思い出したのが大沢だった。

あれほど敬遠していた大沢に連絡をとり、職員になる気があるかどうか確かめよという指示があった。その交渉役がまた私にまわってきた。

すでに私は、異を唱える気力も失っていた。会全体にもワンマン社長というより神として、その言葉には絶対服従であるという暗黙の了解ができつつあった。

大沢との話はうまくまとまり、まずは相談役という立場で〈幸福の科学〉を応援してもらうことになった。

本部には草創期の情熱とはまた違った熱気がみなぎっていた。

そんな雰囲気の中で、あるとき関東地方の青年部の集会が開かれた。そこでは、私が講演することになっていた。拡大路線をひた走る会の将来を危惧していた私は、反省についてじっくり語ってみたいと思った。

ご存じの方も多いと思うが〈幸福の科学〉では大川の説く「現代の四正道」が教義の柱になっている。「愛」「知」「反省」「発展」の四つを幸福の原理として、自らの心を探究していこうという教えである。

まわりが発展と知ばかりだったから、私一人ぐらいは反省を説かなければという気持ちだった。反省こそ自己確立の最短コースであると、事あるごとに私は述べていた。自分の人生を振り返ることが、一番の修行法であり、また千に一つの間違いもないということを、私は講演会のたびに繰り返し強調してきた。

だから、この点にかぎっては私は青年部にひどく受けが悪かった。理由はハッキリしている。〈幸福の科学〉の会員、とくに若い会員たちは、反省など大嫌いだったのである。

そんな面倒なことは避けて通りたかったのだ。

性懲りもなく、この日も私は反省の必要を訴えた。

私の話が終わると、関東地方の世話役だった俳優の北原宏一がマイクの前に立った。彼もまた反省の嫌いな部類だった。

「反省など要らない。〈幸福の科学〉にこんな教えがあるのがおかしいんだ」

何人かの委員がハッとして私のほうを見た。

「おまえたちは若いんだ。反省なんかしているヒマがあったら、外へ出て何でもいいからやってこい。何でもいいから会のために行動しろ」

こんなアジテーションが若い会員には受けた。世話役といえども部外者の北原が、本部講師の講演にイチャモンをつけるなど、本来なら間違ってもあってはならないことである。

しかし〔会のため〕と言えば、それも許されてしまう。そんなところにも学習団体から伝道団体への会の変質が現れていた。

私の記憶では、この北原が〈光の戦士〉という言葉を最初に使ったのではないだろうか。

ある集会の席でこう発言したのである。

「私は〈光の天使〉にはなれないかもしれない。しかし〈光の戦士〉になら、なれる。喜んで会のために戦う〈光の戦士〉となりましょう」

それ以降〈光の天使〉よりも〈光の戦士〉のほうが、この会のアイデンティティーを示す言葉として一般的になっていく。

大川の言う〈光の天使〉とは菩薩であり、利他行の実践者のことである。一方、〈光の戦士〉は伝道者、ありていに言えば新しい会員を獲得し、たくさんの人を集める活動家である。

天使から戦士へ。これほど〈幸福の科学〉の変質を端的に物語るものが他にあるだろうか。後のフライデー事件の際に示された天使とは思えない攻撃的な姿勢も、実はここに始まっていたのである。

北原の演説に湧き立ち、目を輝かせている若者たちを、私は講演者席から淋しい思いで見ていた。この会での私の仕事はもう終わったのかもしれない。去るべきときを私は漠然と予感した。


《必然的だったフライデー事件への道》

 私たちの〈幸福の科学〉では、大川隆法の説く「愛」「知」「反省」「発展」の四つが幸福の原理とされた。しかし今の会には「発展」だけが残り、ほかの三要素はすっかり抜け落ちてしまったという印象が私には強い。

 まず〔愛〕主宰先生には素晴らしい愛の言葉がある。しかし、愛の実践はどこにも見つからなかった。実践なき愛に何の意味があるだろう。〔与える愛〕などという言葉は知らなくても、生活の中で自然にそれを実践している人たちのほうが、はるかに高次元の魂である。

自宅前の道を掃くついでに、隣の家の前も掃いている主婦。電車の中でお年寄りに席を譲る少女。夜遅くまで同僚の残業を手伝ってしまうサラリーマン。大川の本を読んで愛の発展段階をおぼえる前に、会員はそういうありふれた愛の実践をおこなっているだろうか。

もし〔伝道は与える愛の実践です〕(大川きょう子『愛を与えることの幸福』)などと言うのなら、あまりにも人を喰った話ではないか。

 次に〔知〕私たちはこれを求めてきた。そのために学習団体をつくった。しかし大川が導入した試験制度は、彼の神理を一方的に受け入れるだけの〔受験勉強〕に学習を変えてしまった。考えるという、本来の学習は必要ではなくなったのだ。

──宗教法人「幸福の科学」は〔人間にとってほんとうの幸福とは何か〕というテーマを考えていく人びとの集いです。

会の出版物にはそう書かれている。しかし自分で考える人間は、阿南のように去っていかなければならない。〈幸福の科学〉では考えてはいけないのである。

〈幸福の科学〉の優等生になりたい、試験でいい成績をとって表彰されたい読者のために、かつての採点者として、受験テクニックをご披露しておこう。回答には体験的な含蓄のある話は避けること。霊言集の暗記に精を出し、抽象的な理論を展開し、できるだけきれいごとで終わらせること。実人生の体験から神理を語るようなことは、ゆめゆめしてはならない。どんなに神理に迫っていても高く評価されない。

 さて三つ目は〔反省〕である。イエスも仏陀も最初に反省を訴えた。ときには、それを厳しく強いてもいる。大川も幸福の原理の一つに反省を挙げた。

自分の心を見つめる反省こそ最高の修行法である、と説いたのは高橋信次である。想念帯の曇りを反省によって取り除いていけば、誰でも本源の神に通じることができる。それが彼の教えの核であった。大川が反省を挙げるのも、こうした高橋の教えの影響を強く受けているからだろう。

しかし〈幸福の科学〉には何の反省行もなかった。そこが大きな問題であると、私は常々感じていた。最近になって90年2月『実践反省法講義』テープを聞いてみたが、そこにも世間で言われているような〔軽く浅い〕説法があるだけだった。

この講話でも大川は、反省が天上界につながる絶対条件であると一応は述べている。高橋信次そのままだから、そんなことは高橋の本を読めば誰にでも言える。しかし知らない人はここで「大川隆法はすごい」と思ってしまうのである。大事なのはそんな理屈ではなく、ほんとうの反省があるかどうかである。

では大川の反省法とはどのようなものか

・「小欲知足」を理解しなさい。

・他のせいにするな、原因はすべて自分にあると理解しなさい。

・自分の欠点を修正していく努力が大切であると理解しなさい。

この三つが講義の柱になっている。頭で理解することと反省とは、まるで違うはずだが、それは措くとしよう。講義の後に大川による反省瞑想指導がある。

「ハイ、足ることを知らないでいた自分について思い出してください」

そして15分ほど無言がつづく。そのあいだ参加者は、足ることを知らなかった自分を必至で思い出しているのだろう。

「過去、他人のせいにしていたことがなかったかどうか、思い出してみてください」

「ハイ、自分の欠点を直す努力をしたかどうか思い出してください」

信じられないことに、これが『実践反省法』のすべてだった。なんとつまらない反省であろう。こんなものでは、そこにいた全員が、もうそれっきり自分からは二度と反省などしないことは断言できる。反省といっても〈幸福の科学〉ではこの程度なのだ。

反省のないところに、正しい発展はあり得ない。

あのフライデー事件も、反省なき発展の結果ではなかっただろうか。


『虚業教団』19

虚業教団19


《これがフライデー事件の真相だ》

 あのフライデー事件における〈光の戦士〉たちの行動を思い出してみよう。

フライデー事件の背景となったのは、大川が90年に発表した「サンライズ計画」、翌年の91年にブチあげた「ミラクル計画」による会の極端な膨張である。

私が退会した89年には実数で1万数千人の会員がいた。それが90年になると、わずか1年間で17万に増えている。

さらに「ミラクル計画」では、91年に100万人、92年に300万人、93年には会員1000万人を目標に設定した。正常な判断力があれば、この計画そのものに、すでに異常が潜んでいることに気づくだろう。しかし、仏陀が掲げた目標である。会員を動員し、出版、新聞、テレビ・ラジオを使った大キャンペーンが打たれる。その経費が20億円とも言われている。その結果、91年には200万人を突破し、92年をすぎると、会員のあいだでは500万、700万という数字が噂されるようになる。

仏陀の宣言した目標は着実に達成されているのである。

もし、この数字がほんとうに達成されていると信じる会員がいたら、おめでたいと言うしかない。私のところへ集まってくる話では、実数はせいぜい100万人。しかも、そのほとんどは、おつきあいで入った月刊誌だけの誌友会員である。熱心な会員と呼べるのは10万人程度ではないだろうか。大川の説く神理に実践がともなわなかったように、会員の数も実態のともなわない数字でしかない。

それでも目を見張るような発展ぶりである。86年に開かれた発足記念座談会の聴衆は わずか70人。それが5年後には、東京ドームを満席にするのである。たいへんな躍進と言わなければならない。

 しかし、出るクイは打たれる。短期間に急成長を遂げ、紀尾井町ビルのワンフロアを借り切って、華々しいキャンペーンを繰り広げている新宗教に、マスコミが噛みつかないはずがない。霊能力者ならずとも予想できることである。

案の定〈幸福の科学〉バッシングが始まった。

″御生誕祭″の二カ月後、写真週刊誌『フライデー』に批判的な連載記事が掲載される。

「急膨張するバブル教団『幸福の科学』/大川隆法の野望」。記事は悪意と中傷に満ち満ちたものだった。すでに自分の生活に戻った中原幸枝のプライベートにまで、無遠慮にカメラが向けられた。なかでも大川を激怒させたのは、「学生時代の大川はうつ病で精神科医にかかっていた」という箇所だった。

名誉棄損罪で出版元の講談社と、フライデー編集長を東京地裁に告訴。講談社には300人あまりの会員が抗議デモをかけ、同時に抗議電話が殺到。ファックスも絶え間なく送られてくる抗議文に占領されて、業務にも支障をきたす事態になった。

「これは宗教戦争であり、聖戦である」

大川はそう宣言している。

 前後の会の動きを、私が知り得たところをもとに再現してみるとこうなる。

まず、会としての対応を検討するために、紀尾井町ビルの本部に課長以上の幹部40名ほどが招集された。会議は前後二日におよんでいる。最初は「こんな写真誌の記事は無視しょう」という穏健な意見が大勢を占めていた。それに対し、大沢敏夫ら数人の幹部が「そんな意気地のないことでどうするか」「今こそ仏陀様に恩返しするときである」と強硬に主張して譲らなかった。

両者の議論は白熱し、会議というよりはケンカに近い様相を呈してきた。

このとき穏健派を代表していた幹部の一人、前川節が主宰室に呼ばれている。何事かを大川と話し合い、再び席に戻った前川はすっかり大沢グループに豹変していた。これがその場の情勢を一変させる。〔正義のための闘い〕へ向かって動き出したのである。

この会議の最中、大川家から二度ほどファックスが送られてきた。

「大衆受けするよう整然とした隊列をつくること。目立つように盛大におこなうこと」といった内容が記されていた。講談社への抗議デモの具体的やり方を、主宰夫人が指示してきたのだ。おそらく抗議デモの一件は、大川夫妻と大沢のあいだで、あらかじめ決定されていたのだろう。

 会議の参加者は、そのまま中野にあるオリンピックビルの研修場へ移動した。そこには すでに、関東支部の会員300人ほどが動員されていた。彼らを前に、大沢、そして大川が拳を振り上げながら熱烈なアジテーションをおこなっている。

「我われは、魔に対して断固として闘う。キリストをはじめ、天上界の天使たちもそうせよと言っている」と、天狗の団扇を正面に突き出して宣言したのだ。

右の頬を叩かれたら左の頬を出せと説くキリストが、まさかそんなことを言うとも思えないが、霊言とはまことに便利なものではある。かくして、講談社へのイヤガラセ部隊の出陣となった。

しかしこの滑稽劇にはまだ続きがあった。デモ終了後、会員たちは再び研修場へ戻り、講談社への抗議文を書かされた。ほとんどの参加者はそのとき渡されたコピーで、はじめて記事を読んだ。

主宰先生の結婚式の写真なども載っていたから、大川の私生活については何も知らされていない会員たちは、大喜びで読みふけったという証言もある。デモで疲れているのに、さらに「抗議文」を書けという。被害を受けた感じもしないので何を書いていいかわからず、戸惑った参加者も少なくなかったらしい。

こうした会の対応が世間の批判を浴びると、景山民夫らが中心となって「講談社=フライデー被害者の会」を結成し、市民運動を装いながら抗議を法廷へ持ち込んだ。

もちろん市民運動でも何でもない。言うまでもなく、〈幸福の科学〉本部の指示でつくられ、命令にしたがって動いている。また抗議電話や抗議ファックスに関しても「止むに止まれぬ気持ちから会員が自発的におこなったもの」と会は釈明したが、たとえ止むに止まれぬ気持ちからでも、本部からの指令に基づいていたであろうことは断言してもいい。会の体質からして、大川の指示がなければ何一つできないのである。

 阿南事件で残った古い会員もフライデー事件をきっかけに多くが会を去っている。拡大拡大できた会員の獲得もかげりが現れ、資金面で行き詰まっていると聞く。フライデーは、まさに〈幸福の科学〉のつまずきの石になった。景山民夫や小川知子らが、もうしばらくの間は続けるであろう熱唱にもかかわらず。

 そこで思い出すのが、昭和31年に起きた立正佼成会の読売事件のことだ。

昭和31年1月から、読売新聞は大々的な反・立正佼成会のキャンペーンを張った。

発端となった土地買い占めは、会そのものとは無関係だったことが間もなく判明するが、キャンペーンは教団幹部への個人攻撃や教義内容の批判へ発展し、およそ3カ月間にもわたってつづいた。36万の信者世帯をわずか1年で30万に激減させたというから、その激しさを想像できる。

これに対し立正佼成会は、関係機関に内部調査の結果を配った以外は、完全に沈黙を守った。「読売の記事がウソなら佼成会は告訴すべきではないか」という声にも、報復は宗教団体のとるべき道ではないとして動こうとしなかった。

攻撃の止んだ4月になって、次のような文章が『佼成新聞』に発表されている。

「われわれは批判に対してなんら躊躇する必要はないし、むしろ私どもに足りない所があるなら、もっともっと新聞に書いて、諫めていただきたいくらいです。衷心から感謝申し上げると同時に、私どもはいつでも多くのかたの批判をありがたく頂戴し、自分に至らないところがあれば、即座に直すだけの寛容さがなければなりません」

そして、自分たちを高めてくれる師として″読売菩薩″と呼んだのである。

 このようなものを反省と言うのではないだろうか。これに反し「反省とは自らを省みるということ。他を責めるという気持ちから、自らをもう一度振り返ってみる。こういう考えが大事です」(『不動心』)

こんな一般論を、いくら口先でしゃべってもダメなのだ。

 高橋信次は「反省こそが法なのだ」と繰り返し語っている。「人につかず、組織につかず、法につけ」 は生前の口癖だった。

フライデー事件は、人につき、組織につき、かわりに法をなくしてしまった会の実態を衆目にさらしたのである。

 仲間と一緒に夢を抱き、命懸けでつくりあげてきた〈幸福の科学〉。こんなものをつくるために、私たちは人生をかけたのか……。

それはすでに、私たちがつくろうとしたものとは、まるで違うものだった。

──中原よ。君は「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで心の師となる人を見つけることができた」と私たちに語った。あのときの輝きに満ちた君の表情を今も思い出す。

しかしその人は、少なくても私たちの心の師ではなかった。それでは、いったい何が私たちに、あの青年を心の師と思わせてしまったのだろう。

 中原よ。あれほど厳しく自分の心を見つめようとしていた君も、阿南も、私も、肉体を持つ誰かに神を、生きる指針を見いだしたかったのだろうか。


『虚業教団』20

虚業教団20
決別 おわりに Notes


《幸福の科学との決別》

 89年の6月15日に、私は「嘆願書」を提出した。

「私はかねてより、自分の器の小ささを自覚しておりました。したがっていつも、幸福の科学のスタート時点にささやかなお手伝いぐらいしかできないと決めて頑張って参りました。今ちょうど幸福の科学は最初の走り出しが終わり、これからは発展がとめどもなく続くという時点にきていると考えます。私の役目もひと区切りついた今、健康上の問題もあり6月一杯で、全ての役職、職務を降りて一会員とさせていただきたく嘆願いたします」

このときは、退会しようというハッキリした気持ちがあったわけではない。役職についていることが、もう苦痛でたまらなかったのである。ロンドンへ渡り、医師にかかりながら、しばらく静養することだけは決めていた。

大川も「それならしかたない」と一カ月の休暇をくれた。

7月に入って、大宮で大講演会が催された。会場の入口には長い列ができ、聴衆は数千人にもふくれあがった。その日は、私が司会者をつとめることになっていた。

(先生には申しわけない)

大川の講演を聞きながら、そんなことをしきりに思った。いつものように演壇の隅のイスに座り、聴衆に対していた私の目に映る人々の顔、顔、顔。そこにいるすべての人が、なぜか愛しくてたまらなかった。

講演会は大成功だった。無事に終了したとき、いつにも増してホッとした。自分の役目がすっかり終わりでもしたかのような、快い虚脱感をおぼえた。

 翌日も、その翌日も、私は出勤しなかった。

そのまま出立の日がきて、私はロンドンへ向けて機上の人となった。

ロンドンでは晴れあがった青空が私を歓迎してくれた。本部の細田事務局長に宛てて正式な辞表を送ったのは、一カ月後のことである。二週間ほどすると、100人近くいた職員全員からのラブコールが届いた。「早く戻って来て、また一緒にやりましょうよ」と、

趣向を凝らして寄せ書きされた七枚の色紙。それを手にして、涙が出るほど嬉しかった。

しかしそのときは、もう私の心は決まっていた。

これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう。


《おわりに》

 86年に、新宿の割烹料理店で大川先生に会ってから三年半。私は素晴らしい体験をさせていただいたと思う。私にとって、それは二度目の青春であった。霊性時代の樹立という情熱に燃えた日々。一途に情熱を傾けるものがあるとは、なんと幸せだろう。

 いまは、1993年の秋である。大川先生と最後にお会いしてから、すでに四年の歳月がすぎている。

ロンドンから戻った私の顔を見て、先生は嬉しそうに笑いながらこう言った。

「関谷さんにはうってつけの仕事があるんです。テープと書籍を専門に販売するミニショップを、キヨスク方式で全国展開してもらいたいんだよ」

「いや、それは……」という私に「いや、こういうことは関谷さんしかいないんだ。実践で頑張ってください」

たぶんそのときはじめて、私は大川隆法という人に、かすかな憐憫の気持ちをいだいたように思う。

 この四年のあいだには〈幸福の科学〉にも私にも、いろいろなことがあった。

しかし、神理探究の団体〈幸福の科学〉を離れた私は、かつての求道心を忘れただろうか。霊性時代の樹立という理想が薄らいできただろうか。

いや、むしろますます求道心に燃え、より強く理想を求めている。

私はこの本の中で、大川先生と〈幸福の科学〉について批判的に語ってきたかもしれない。その心は、大川先生への個人崇拝と、あまりにも露骨な拡張路線に対する、OBとしての危惧である。〈幸福の科学〉はダメだ、と言いたいのでは決してない。それどころか、〈幸福の科学〉にはまだまだ大きな役割があると信じている。

これまでの自己中心的なご利益信仰の段階から、精神的な世界へ覚醒を促す役割。物質欲に支配されず、心にしたがって生きる理想を説く役割である。

 霊性時代の樹立という〈幸福の科学〉用語を繰り返し使ってきたが、それは、この理想が社会的にも実現するときを意味している。

大川先生は、この理想をわかりやすく、ときには「面白おかしく私たちに教えてくださったのである。たとえ世間で言われるように、先人の言葉のパッチワークであってもいい。

浅く、軽い教えでもいい。もしかすると、批判記事を書いた出版社へデモをかけるのもいいかもしれない。それによって、この人たちが言っている霊性時代とは何なのだろうと考える人が一人でも増えるなら。

物質的な原理を超えた理想に、人々の眼差しを導く。それが〈幸福の科学〉に、神が与えられた会の存在理由ではないだろうか。

 いま、改めて、愛をもって幸福の科学の存在意義に拍手を贈る。

 最後に、私と同じように、幸福の科学を卒業した数百万人の人達、そして、さまざまな宗教団体の中で疑問に苦しんでいる人や、多くの宗教難民にはこう伝えたい。

信じなければならないのは、教祖や教義以上に、自分自身の〔善我〕なのだ、と。

心の奥底に埋もれていた〔善我〕にこそ、神が、法が、すべての聖書・仏典が、既に内在されていたのだ、と。そして、自分が変容してこそのユートピアなのだ、と。

一時は、誰の心も難民としてさまよい師を求めた。が、しかしそれらはみんな必要なプロセスであった。我ら求道者の命は、まさに〔日々是転生〕。一日一日新しく生まれ変わって成長していく。

汝(己)自身を知る(悟る)ために新しい学習も必要であった。賢人の訓示も、大いなる参考とはなった。

いままで、外部から何かを吸収し続けてきた。

しかしそれでも、変容し切れなかった自分

最後にもう一歩

生きたこのままで転生し理想の人生を生きたいと本心から望むなら

己自身の〔内なる光〕を掘り起こそうではないか!

素直に自分を振り返ってみよう

過去の幾つかの出来事の一つ一つがその出来事こそが悟りに至るための、最高の神示ではなかったか?

神仏の 光求めて 幾星霜
悟ればほとけ 我が心なり

       高橋信次

 私はいま内在された偉大なる仏智と出会うための自己啓発法、D・I・L(ディスカヴァー・インナー・ライト)の研究に打ち込んでいる。研究成果をいずれご披露できる日もあるだろう。

 私にこのような道を歩ませてくれたのも、決して皮肉ではなく大川先生であり〈幸福の科学〉であった。幸福の科学を卒業したからこそ、現在の自分があると感謝している。

 願わくば幸福の科学自らが、でき得るならば私の初期の理想のように、独創性をもった〈神理学習学校〉に軌道修正して、愛ある上昇飛行されんことを祈るばかりである。



『虚業教団』
〈幸福の科学〉で学んだものは何だったのか

1993年12月31日 初版第l刷




Notes
*明らかに誤字と思われる部分は文脈から考えて訂正しました

*原文のカッコ等の記号を一部変更し、改行や段落の場所を編集しました

*漢数字を一部分、算数字に改めました

*全文の容量は約150kbです


Web版補修 Thanks
獏論[幸福の科学アラカルト]
http://spiruna.blog89.fc2.com/



  TopPage  



Copyright ©Heart Earth. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。