*公益法人の名誉毀損【公益法人の名誉毀損】最高裁判決 平成14年11月8日 「宗教法人及びその主宰者等は、法による手厚い制度的保護の下に、人の魂の救済を図るという至上かつ崇高な活動に従事しているのであり、このような特別な立場にある団体ないしその責任者は、常に社会一般からその全存在について厳しい批判の対象とされるのは自明のことというべきであろう」「名誉毀損については、理由がなく失当」と退ける。 |
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*幸福の科学は
宗教法人のため、この団体および主宰者の在り方を報道し意見を公表することは、最高裁判例により認められた合法行為であり、
誹謗や名誉毀損にはあたりません。■『週刊文春』2019年2月28日号
◆大川隆法長男が語る「『幸福の科学』決別の理由は清水富美加との“結婚強制”」 *文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/10791 ∥
◆大川隆法の長男、独白6時間「清水富美加との“結婚強制”」【全文】有料
2/20(水) 16:00配信
1986年に設立された「幸福の科学」。大川隆法総裁(62)の長男である宏洋氏(29)が「週刊文春」の取材に応じ、教団と決別した経緯について詳細に語った。
*父は、僕にとって最高の反面教師です時間に及ぶインタビューで彼は断言した。なぜ教団を去り、教祖である父と決別したのか。その理由は“神の子”として育った特殊な家庭環境にあった。総裁である父のことから清水富美加との結婚騒動まで赤裸々に語った。
†800×533/清水富美加と大川宏洋
出展:映画『さらば青春、されど青春』2018年5月
*「彼女と結婚しなさい」父から女優・清水富美加さん(千眼美子に改名)との結婚を初めて迫られたのは、2017年1月末のことでした。続けて父は「彼女には芸能事務所を辞めさせるから」と言うのです。
鋭い眼光が印象的なスーツ姿の青年が整然と語り続ける。宗教法人「幸福の科学」の創始者、大川隆法総裁の長男・宏洋氏(29)だ。
1986年設立の「幸福の科学」。宗教法人格を取得した1991年頃から急速に信者数を増やし、1990年末に17万人だった信者が半年後には100万人を超え、現在は1000万人を超えたと称している。
1989年、5人きょうだいの長男として生まれた宏洋氏は、青山学院大学を卒業後、「幸福の科学」の理事長や系列芸能事務所の社長などを歴任。教団の映画製作などを手がけていたが、2018年10月、突如、動画サイト「YouTube」の自身のチャンネルで「幸福の科学」との決別を宣言した。
そして今回、小誌の取材に応じた宏洋氏は、父・大川隆法氏の“素顔”をはじめ、特殊な環境で育った自身の半生を赤裸々に明かした。
突然、父から富美加さんとの結婚を迫られた僕は「彼女にはすでに決まっている仕事もあるし、駄目でしょう」と反論しました。それでも父は「決まったことだから」「あの富美加ちゃんだぞ」と全く取り合ってくれなかった。父は彼女に連絡を入れ、所属していた芸能事務所を契約途中で辞めることを承諾させました。その翌日から彼女は仕事を一方的にキャンセルし、撮影現場に行かなくなったそうです。それが“出家騒動”の真相です。
*清水は「千眼美子」として出家清水富美加は2015年のNHKの朝ドラ「まれ」で主人公の親友役を務め、一躍ブレイク。映画「暗黒女子」の主演や「東京喰種トーキョーグール」のヒロイン役に抜擢され、新進気鋭の女優として注目を浴びていたが、2017年2月に突如、芸能界引退を表明した。同時に、法名「千眼美子」として「幸福の科学」への出家を発表。清水が出演するテレビや映画は放送中止や差し替えを迫られるなど、大騒動に発展した。そして同年(2017年)5月、当時の所属事務所レプロとの契約終了と、幸福の科学グループの新事務所「アリ・プロダクション」への所属が発表された。
どうしても彼女との結婚を受け入れられなかった僕が、同年(2017年)11月18日、「清水さんと結婚はしません」と きっぱり断ると、父は怒り狂いました。僕と結婚させるため芸能事務所を辞めさせたのに、メンツを潰されたと感じたのでしょう。一方で、僕も限界でした。その日を境に、教団、そして大川家と決別し、一人で生きて行く覚悟を決めたのです。
この日、富美加さんと僕が主演した教団の映画「さらば青春、されど青春」(2018年5月公開)の撮影終了後、富美加さんと僕に、父から「大悟館」に来るよう連絡がありました。教団内部では、港区・白金にある大川家の自宅を「大悟館」と呼んでいます。
2階にあるリビングの食卓に2人並んで座ると、父は富美加さんに撮影の感想を尋ねたり、「宏洋は真面目で良い子だ」と話しかけていました。彼女は「そうなんですね」とニコニコ相槌を打っているだけでした。彼女の帰宅後、父と二人きりになったとき、「あの子は二面性があるから信用できないし、結婚はできない」と伝えました。
彼女は教団の信者でしたが、基本となる経典「悪霊撃退の祈り」さえ読んだことがないと本人から聞かされたこともあります。父は「教学はこれから勉強すればいいじゃないか」と言っていましたが、映画の撮影中、撮影スタッフの陰口を言うなど、彼女の裏表の激しい性格を目の当たりにし、とても一緒に生活できないと感じていたのです。
父の趣味はウサギの繁殖です。昔から30匹以上のウサギを飼って、繁殖させていました。子供の結婚も同じ感覚なんでしょう。「子供の結婚相手は当然自分が決めるもの」と思い込んでいる父は、僕が結婚を拒否したことにかなりショックを受けていました。
この日を最後に、父とは一度も会っていません。
*幼少期から宏洋氏は「幸福の科学」の“後継者”として育てられてきた。 僕は、母方の実家である秋田・矢島町(現・由利本荘市)の病院で生まれました(1989年2月24日)。祖父が産婦人科医だったこともあり、3歳くらいまでは秋田と東京を行ったりきたりする生活でした。
当時、父がオウムの暗殺者リストに入っているという情報もあり、少しでも異変があれば、生活の面倒を見てくれる秘書と一緒に秋田に向かいます。だから幼少の頃は、両親よりも祖父母と過ごした時間の方が長かった。
当時はフライデー事件などもあり、父や母は相当、敏感になっていました。たとえば父が講演する東京ドームや横浜アリーナに出入りする際は、狙撃されないよう車中でずっと頭を伏せていました。今にして思えば、防弾ガラスが装備されていたから、そんな必要はなかったんですけどね。
1991年9月、「幸福の科学」は、「大川総裁がノイローゼの相談をしていた」などとする記事を掲載した週刊誌「フライデー」に抗議。発行元の講談社前で数百人がシュプレヒコールを上げるなど、激烈な抗議運動を展開し、マスコミを騒がせた。
*東大合格を義務づけられた 教育方針は異常でした。小学校に上がる前から「とにかく東大法学部に現役合格せよ」と言われ、義務付けられていました。「東大早慶以外は大学ではない」と言うのです。「何事も一番でなければ意味が無い」というのが、父からの唯一の教えでした。4歳か5歳の頃には、開成中や麻布中などの有名進学校、そして東大の学園祭に連れて行かれ「お前はここに行くんだぞ」と、念押しされました。
幼稚園には通うことはなかった。その代わり、朝8時から夜の8時まで「太陽の法」などの経典を叩き込まれました。小学校に上がるまで友達は一人もいませんでした。
家庭での食事も独特です。リビングのテーブルで家族そろって食べるのですが、ひたすら父が喋り続けます。宗教や教団職員の人物評、政治などについてひたすら独り言のように喋り続けているので、子供たちはそれを聞かなくてはならない。発言することは許されません。父が太りやすい体質だったため、油を控えた料理が多かったことを覚えています。
食事が終わると、父は歴史や宗教の書物を読みます。リビングのテレビでは、NHKの教育番組や「これで分かる日本の歴史」といった教材が延々と流れており、子供はそれを見続けます。少しでも私語をすれば「うるさい、バカ波動を出すな」と父に叱られる。子供が粗相をすると秘書のクビが飛ぶので、秘書にはいつも陰で殴られていました。「総裁先生の前で余計なことをするな」と。
地元の公立小学校に入学後、ようやく「自分の家庭はおかしいんじゃないか」と思い始めました。車での送迎があるのは自分だけだし、授業参観に来るのは20代前半の秘書。周囲の子も「あれっ?」と不思議に思うのは当然です。次第に、大川隆法の息子ということがクラスで広まっていきました。常々、教団の秘書から「あなたは総裁先生の息子として、多くの人を教え導く立場だから友達と遊ぶ必要はない」と言われており、友達と一緒に遊びたい気持ちもあったけど、放課後は自宅に直行して勉強する毎日です。修学旅行も「意味が無いから」という理由で行かせてもらえなかった。
*子供部屋には監視カメラ 僕の一人部屋には監視カメラが付いていて、行動を常に見張られていました。弟妹が4人いるんですが、全員、同じ環境でした。次第に、「この家に生まれなければよかった」と思うようになりました。

†1998年8月10日 軽井沢/家族7人で過ごした夏休みの思い出
写真出典:大川きょう子『党首の決断』2009
毎年8月には軽井沢の別荘で3週間ほど過ごすのが恒例行事でした。家族水入らずで、釣りやテニスを楽しみました。
父は虫が好きで、別荘内の雑木林にシーツを張り、カブトムシやクワガタを捕りました。昆虫が集まっていると、「おー、いたぞ!」と喜ぶんですが、実は早朝に秘書たちが店で買ってきたカブトムシやクワガタを野生に見せかけて置いていたのです。高学年になると、そうした裏事情も分かっていましたが、父の機嫌を損なわないために、「良かったね」と声をかけていました。
「父の後を継ぎたい、宗教の仕事をしたい」と思ったことは一度もありません。たまたま自分が大川家の長男で、周りがそう言っているだけでした。幼い頃から、父は神様だと教わってきた。経典にもそう書いてある。それでも父を神だと思ったことはありません。僕にとっては生みの親で、それ以上でも以下でもない。
「霊言」だって、占いみたいなものだから、「大川隆法の意見」として発信すればいいのにと思います。「○○の霊がそう言っている」っていうのは責任逃れでしょう。「霊言」の現場に立ち会ったことがありますが、父は、「霊」を呼び出す前、その人物についての資料を熱心に確認していますからね。
小さい頃に東京ドームでの講演会で、父が「信仰は勝利であーる」と言うと、信者さんが涙をボロボロ流すんですよ。「どうして拍手するんだろう、何に感動してるんだろう」と、ずっと疑問でしたね。
*“総裁の後継者”としての立場は、中学受験の失敗を機に一変したという。 小学生の頃は勉強漬けの日々でしたが、どうしても算数が苦手でした。結局、麻布中学に落ちてしまい、東京学芸大学附属竹早中に進みましたが、“学歴至上主義”の父が失望していることがはっきり分かりました。「こいつは後継者ではないな」と。白金の自宅では子供の部屋が2階にそれぞれ与えられていたのですが、中学受験を機に、僕だけ1階の隅に部屋を移され、2階以上への立ち入りは禁止。食事も家族とは別々となり、その後の数年間、父母や弟妹との接触がほとんどなくなってしまいました。
僕の中学受験をめぐって、父母の夫婦仲も悪化しました。父は「お前の教育が悪いんだ」と母親をなじり、顔を合わせるたびに両親が言い争いをするようになった。後に母は教団を追い出されましたが、不仲の原因をつくったのは明らかに僕なので、責任を感じています。(2001年)
弟妹の関係も悪くなりました。それまで彼らは「跡継ぎのお兄ちゃんを支えなさい」と言われていましたが、僕の置かれた立場を見て野心を膨らませたのです。弟妹たちは「自分が一番」と自己主張するようになり、喧嘩の回数が目に見えて増えていきました。
高校は早稲田大高等学院に進学しましたが(2004年)、1年で青山学院高等部に入学し直しました(2005年)。勉強だけでなく、部活や恋愛なども楽しみたかったからです。父からは「お前の考えていることはもう理解できない」と言われ、ついに自宅から追い出されてしまいました。月々5万円の仕送りをもらい、教団の職員寮の六畳一間の一室で生活することになりました。部屋に友達を呼ぼうとすると、管理人が点呼を取りに来ていました。高校1,2年の間、家族と一切連絡を取ることはありませんでしたが、初めての一人暮らしを気楽に楽しんでいました。
*「誰のおかげだと思っているんだ」 家族に異変が起きたのは高校3年の半ばでした(2008年)。急に母から「離婚を考えている」と連絡がありました。久々に実家に行くと、両親が大喧嘩していました。母はリビングで、手当り次第、物を投げていて、尋常ではない様子でした。僕の中学受験以来、夫婦仲は悪かったのですが、よくよく聞いてみると、仕事面でも折り合いがつかなくなったというのです。教団のナンバー2だった母が教団を切盛りするのが難しくなったため、父が「実権のない名誉職に退いてくれないか」と提案。すると「教団をここまで大きくできたのは誰のおかげだと思っているんだ」と母が激高し「離婚しかない」と騒ぎ始めたそうです。
そこで僕を含めた5人の子供が集まり、会議を開きました。弟妹と顔を合わせるのは数年ぶりでした。結論は、5人全員一致。「ママに付いていったら、飢え死にする。パパに付いていこう」と。みんなまだ学生でしたし、一番下の妹はまだ小学生でしたから、どうしてもお金が必要でした。子供たちは全員、両親に対する特別な感情はなかったので、迷いはありませんでした。
離婚騒動で、長男の僕が父と母のパイプ役を任されました。母の言い分を父に伝えると、父はずっと「別れたくない」とウジウジしていた。妻への愛情はなくなったわけではないけど、母には仕事を任せられない。父は、その板挟みに苦しんでいました。最後は大人の判断をせざるを得なかったということでしょう。結局、離婚までに5年近くかかりました。
離婚問題で父とやりとりする機会が増えたことで、また実家に呼び戻されました。母が白金の家を出て行ったので、部屋が空いたという事情もあります。そのまま大学4年まで実家に住み続けました。
そして大学1年で教団のアニメ映画「仏陀再誕」の脚本を担当するなど、少しずつ教団の仕事を始めました。映画製作は楽しくて、「これを自分の仕事にしたい」と考えるようになった。自分の中では「教団の仕事」というよりは「映画の仕事」に就いたという感覚です。
でも、次第に映画の仕事を外されるようになり、いつの間にか、教団中枢の業務が増えていました。社会人経験は皆無なのに、稟議書に判子を押すだけの毎日が続きました。月収は100万円以上ありましたが、これでは話が違うと思い、「イチから経験を積めるところで働きたい」と父に直談判しました。父から「君の考えは理解できない」と言われて相当揉めましたが、最後にはしぶしぶ認めてもらい、民間企業に就職することに。建設会社で3年ほどサラリーマン生活を送りました。
その後、宏洋氏は再び教団に呼び戻され、系列芸能事務所「ニュースター・プロダクション」の社長に就任。また、それと前後して両親の離婚が成立。そして2012年、大川隆法氏は、30歳近く歳の離れた教団職員の紫央夫人と再婚する。
紫央さんはもともと父の秘書です。出身が父と同じ徳島県で、話が合うようでした。当時、紫央さん以外にも再婚相手の候補がおり、父は迷っていた。父から「誰と再婚すれば良いかな」と相談されたときに「紫央さんが良いんじゃない」と推薦しました。紫央さんは僕と同年代ですが、全然気にならなかった。ただ、2人に子供が産まれるようなことがあったら、教団内で新たな後継者争いが起きるのは間違いないでしょう。
*「幸福の科学」は「長女の咲也加氏が正式な教団後継者」と発表している。 よく誤解されるんですが、僕たちきょうだいの中にいわゆる“洗脳”されている人は一人もいません。ただ、この先、教団が縮小しても大川家は豪華な生活が維持できるのが分かっているので、文句を言わないだけです。財産の取り分がどのくらいかというのも分かっている。いわば“家業”に入る感覚ですね。
*宏洋「今は弟、妹とも会っていない」
†800×660/2016年元旦 家族写真
画像出典:ケニー爺さん
http://ktkt.naganoblog.jp/e1866274.html直樹(婿)=咲也加(妻)、宏洋、真輝、裕太、愛理沙
大川総裁、紫央夫人
*父の目標はトランプ大統領 教団が抱えている一番の悩みの種が「幸福実現党」の政治活動です。現在、国会議員は一人もいないし、選挙のたびに供託金がかかる。今年の参院選の立候補者数を見れば、教団の財政状況を推測できると思います。
ただ政治活動は、30年以上前からの父の夢ですから続けざるを得ません。実業家として成功し、国家の舵取りをするのが、父の最終目標です。日本のドナルド・トランプになりたいのでしょう。まだまだ諦めてないと思います。
父は、僕にとって最高の反面教師です。名誉欲や金銭欲にまみれると、人生で一番大事なものを失う――。それを教えてくれたのが他でもない父でした。
今年(2019年)1月、僕は「幸福の科学」に退職届を出しており、教団に戻ることは100%ありません。今後、僕は映画・舞台製作や俳優の仕事を続けていこうと考えています。
*「幸福の科学グループ広報局」は「宏洋氏は教団後継者とされたことは一度もありません」とし、次のように回答した。「大川総裁が宏洋氏に千眼氏との結婚を強制した事実は一切ありません。2017年1月25日、宏洋氏自身が霊言を行ったなかで、宏洋氏に入ったある霊人が宏洋氏の口を通して結婚を勧める話を出しました。霊言後、当時の宏洋氏本人はその気になっていたというのが事実であり、大川総裁から結婚を勧めたことは一度もありません。また千眼氏は幼少時からの熱心な信者であり、出家以前からたびたび祈願や研修を受けており『悪霊撃退の祈り』を読んだことがないというのは事実に反します」
今回の取材依頼も当初、お断りをしようと思っていました。ただ教団側は、僕が未だに「幸福の科学」から離れておらず、僕のことを休職中の職員だと嘘を言い続けています。こうした教団側の姿勢に納得できなかったので、自分の口で きちんと真実をお伝えしたいと思った次第です。
~「週刊文春」編集部/週刊文春 2019年2月28日号
※週刊文春さん、いつも貴重な記事をありがとうございます。今回、この有料記事を購入させて頂きました。教団関係の資料として、私の個人ブログに転載しても宜しいでしょうか。少しでも、この宗教に惑わされている信者さんたちに気付きの一助になればとの想いから資料としてアップさせて頂きました。もし不都合であれば非公開設定に致します。
※文中の西暦は4ケタ表示に改めました。文中( )の西暦は私の追記です。
※画像・画像出展はオリジナル記事のものとは異なります。
■情報元
∮文春オンライン→【全文】有料
https://bunshun.jp/articles/-/10791■関連記事
∮宏洋くん内部告発 YouTube動画 2018年10月1日/2019年3月22日
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-748.html■関連リンク
∮宏洋くんTwitter @hiroshi19890224
https://twitter.com/hiroshi19890224 ●おまけ1 諸説・他文献との比較文春さん記事の写しだけでは申し訳ないので、これを引用しつつ、以下は当ブログの著作部分です。
*清水富美加との結婚説2017年5月に清水富美加は元の芸能事務所レプロを辞め、幸福の科学の芸能事務所であるARIに移籍した。その当時から「清水富美加と大川宏洋が結婚する」と言われていた。
これは流説ではなく週刊誌で報道されたので、各誌ともこの論調が多かったが、大川宏洋は2013年から2016年まで、一時 幸福の科学を離れて清水建設(清水富美加とは無関係)に就職しており、その間に大川宏洋は一度 結婚しているという真偽未確認情報があった。お相手は今なお不明のままだが、現在 宏洋は一児の父であることを本人YouTubeにおいて公表しているので、結婚していたのは ほぼ間違いなさそうである。
そのため2017年当時、清水富美加との結婚説が出たとき、コーフク・ウオッチャーの間では既婚説が有力で、清水富美加との結婚説には懐疑的であった。
しかし今回の文春記事によって、清水富美加結婚説は答え合わせをするように明瞭になり、当時の内部の状況や、宏洋出奔の理由が明らかになったのは、秘密のヴェールの内側を知れたような快感がある。
そして、清水富美加結婚説は、報道した週刊誌の先走りではなく、確か教団広報局のリークが元になっていたはずだから〔←この部分の情報ソースは忘れました〕これが事実だとすると「大川隆法は宏洋が拒否したまま、結婚するという事実がないのにも関わらず、広報局からマスコミ各社に情報を流した」(事実)ことになる。そして「大川隆法は、宏洋が結婚することを納得していないのに先に世間にお披露目を行い既成事実化させて本人に認めさせるようなことをしたのだ」(推論)。
→∮『女性セブン』2017年6月15日号 清水富美加結婚説を追う
https://www.news-postseven.com/archives/20170601_560273.html→∮Pb12『女性セブン』2017年6月15日号 宏洋結婚説の検証/他各誌の報道/関連リンク集
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-729.html ●おまけ2 大川きょう子と大川隆法、離婚原因の検証今回の文春記事において「きょう子と隆法の不仲は宏洋の進学と成績不良が原因だった」という内容を宏洋自身が語っている。
しかし、きょう子と隆法の不仲の原因は子供たちには分からない夫婦間のここに至るまでの経緯が ちゃんとあり、けして宏洋の進学問題が契機ではない。(宏洋くんが気にやむことはないのだ)
離婚に至るまでの経緯は大きなテーマで、いずれ当ブログの記事で検証しようと思っているが、ここでは簡単にまとめておこう。
きょう子との不仲の最初のきっかけは、1997年 次女・愛理沙を懐妊中、切迫早産のため入院する。隆法はその間に軽井沢精舎に行き、宗務秘書の山下ひろみに「性の儀式」を要求し、その後 逃亡(ファルコン告発・種村告発)、続いて山田美星と愛人関係となり、これが宗務内の公然の秘密となる(ファルコン告発)。
きょう子自身が、このことを知るのは2005年~2006年頃、元宗務職員のファルコンと直接連絡を取り、詳しく聞いたと思われる。
「ファルコン」とは匿名掲示板2ちゃんねるにおいて、内部告発を行い、大量の文献を残した人物。ネットの書き込みを信用するのかと疑いを持たれる方もあろうかと思いますが、ファルコン告発の内容は、のちに大川隆法自身の著書『現代の法難1』の記述と一致し、ファルコン告発の記述内容の正しさが証明された。週刊誌などで「教団関係者」という記述のなかには彼が関わっているものもある。ファルコンの本名も明らかになっているが、ここには記さない。
直接の離婚原因となったと思われる事件は、2008年 支部巡錫(=地方支部への巡業)に、隆法は宗務秘書・富ケ原留美〔法名・転法輪蘭〕を同行させ、きょう子は隆法が支部巡錫に行くことを辞めさせようとしたことから(大川隆法『現代の法難1』)、きょう子に対し一方的に「一夫多妻制にする」と宣告(きょう子告発・ファルコン告発)。
大悟館すぐ側の別荘に きょう子が別居。きょう子の教団役職である副総裁を剥奪。その後、2009年に幸福実現党を結成して、一時 きょう子は党首になるが、子供たちには会わせてもらえなかった。2011年から きょう子は週刊誌による内部告発を開始し教団を破門。きょう子守護霊や子供たちの守護霊と称する霊言で口汚く罵倒し、悪妻封印祈願なる呪詛を信者たちにもさせ、2012年に離婚成立。その直後に隆法は紫央と再婚という経過をたどる。
きょう子自身が週刊誌に語った離婚原因は「愛人問題」である。きょう子も けして おとなしい良妻賢母ではなかったかもしれないが、それまでの隆法による度重なる残酷で陰湿な嫌がらせがあったことも確かだ。
一例として隆法は1997年8月に『光輝く女性たちのために』という不倫OKともいえる内容の説法を職員向けにしているが、その説法の日は、きょう子の誕生日であり、わざわざメモを送り「貴女の誕生日に この法話を捧げる」と書き残している。(ファルコン告発)
ちなみに、きょう子が教団経営を担っていた時期は、大いに信者数も伸び、教団経営も安定していたのは事実である。その意味で、上記の文春記事において「誰のおかげだと思ってるの」という きょう子の主張は間違ってはいない。大川隆法が実権を取り戻してやったことは、2009年に幸福実現党を結成して、自分のところの信者数すら把握しておらず、本気で大川隆法が首相になることを夢想し(『文藝春秋』2009年8月号)、結果として惨敗したのは周知の事実であり、これが原因で信者数を大きく減らし、その後の教団経営を傾かせた。
大川隆法は、現実的な現状認識に欠け、観念的な理想論によって暴走してしまったことを思うと、教団の発展には、きょう子の現実的な現状認識と経営力が大きく寄与していると言っていいだろう。
きょう子自身は実働信者数3万(名目信者数50~100万)規模の小規模経営を考えていたようで、多神教的で寛容な福祉と救済を中心とした慈善団体を志向していた。隆法は「福祉や弱者救済は左翼思想」として一蹴し、エルカンターレ(=大川隆法のこと)による一神教の大規模拡大を目指し、伝道(=布教活動)と布施(=集金)による発展志向であった。不仲の原因には、こうした宗教観の根本的な相違が底流にあったことも忘れてはならない(両者の宗教観については大川隆法『現代の法難1』・ファルコン告発)。
教団の視点から見ると、きょう子は弟子の立場なので宗教観の違いを隆法に合わせていかなければいけないということになるだろう。しかし宗教観とは当人の世界観であり、妥協したり、自らを矯正して迎合するものではない。そういう個々の個性の違いを大川隆法は思想的にも心理的にも包摂しきれず、結果として切り捨て離別することでしか解決できなかった。要するに隆法はその程度の器量しかなかったとも言える。
まとめると、愛人問題が離婚原因の中心であり、隆法は法話や霊言によって陰湿な嫌がらせを繰り返し、宗教観の違いを隆法の気持ちの中で包摂しきれず、最終的に一夫多妻制を一方的に宣告したことから破局に至ったのであろう。
そう考えると文春記事のインタビューで語ったように宏洋自身が思い描いている夫婦像や離婚原因とは、また違ったものが見えてくるのではなかろうか。子供たちの進学や養育は夫婦喧嘩の種にはなっただろうけれど、決して両親の離婚原因が子供たちにあったわけではない。その責任は当然 隆法自身 きょう子自身にあるのだから。
→∮Hs3 法話「光輝く女性たちのために」1997年8月22日(抜粋)
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-571.html→∮XK きょう子告発全集/関連資料
http://sakurakaory.blog.fc2.com/blog-entry-635.html
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